ミゲルのペルー再訪記

第三章 リマの風景・ビキさん一家

第一章 目的・道程

第二章 空港・飛行機

第三章 リマの風景・ビキさん一家

第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ

第五章 ペルーの交通事情

第六章 クスコ、慕わしい町

第七章 ペルーの博物館

第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア

第九章 チチカカに浮かぶ島々

第十章 ゴーバック・トゥ・マイホーム

第十一章 ペルー雑感

1月27日
 到着の朝、リマはガスっていた。しかも黄土色したガスが南の方からもくもくと押し寄せて来る。少し硫黄の匂いがして、息苦しく感じる。てっきり光化学スモッグだと思った。リマは工業都市なのか?そういえば大規模な工場らしいものは見ないが、自動車の整備工場らしきものはそこここで見かける。ただ、それにしては人々は平気で霧の中を歩いているし、マスクもしていない。リマではスモッグはまだ問題視されていないのか?海岸に出ると答えはすぐに判った。霧は海で発生してどんどんと海岸へ向かって来る。海洋性の霧だったのだ。黄土色は夜の間の陸風で吹き散らされた砂埃が霧に混じって戻ってきたものだろう。特異な匂いも潮の香りと都市の様々な臭いが混じり合ったものの様だ。ビキさんの従兄弟のワシさんが「このあたりは霧がなければ絶景なんだよ」とPar-que del Amor(恋人達の公園)など海岸沿いの名所を案内してくださったのだが、妻が長旅の疲れとこの臭いにすっかり酔ってしまい、早々にビキさんのお宅へ引き上げることにした。

 ところが、昼前には霧はすっかり晴れ上がった。ビキさん宅の屋上へ上がってみるとあの臭いは何だったんだろうと思うほど空気が清々しい。ちょうど日本の初夏の様で風が爽やかだ。となりのお家にはなぜが案山子が立ててあって、飾り紐が風になびいている。
 ビキさんのお宅はリマ郊外の比較的閑静な住宅地にある。近くに公園があって、奇麗な祠に聖人が祭られている。大きな公園は大体教会の前にある。町中の小さな公園には教会の代わりだろうか、小さな祠を建てキリスト教の聖人を祀るようだ。
 住宅地の中には小さな商店が点在していて子供たちが買い物をしている。一体にのんびりした雰囲気が漂っている。しかしよく見ると商店には鉄格子がはまっていて客は格子越しに買い物をしている。決して開けようとはしない。商品を選ぼうにものぞき込んで見える範囲のものしか選ぶことができない。特に治安が悪いと云う印象はないのだが、油断してはしてやられるということはあるのだろう。

(左)
 海岸公園にある灯台。ガスっている。


(右)
 午後。ビキさん宅の屋上にて。ヒメナと妻。

 ビキさんの家を出てセントロ、サン・イシドロ地区、ミラ・フローレンス地区などを歩いてみた。セントロは旧市街ともいいリマではもっとも繁華な地域である。ペルー政庁、カテドラル、アルマス広場、中央郵便局やサン・マルコス大学、国立図書館、最高裁判所など主要な行政機関が集中している。その間にはデパート、ショッピングセンター、様々なオフィスが林立している。大きな通りにはバスや自動車が激しく行き交い、町を行く人々の表情は明るく活気に満ちている。観光客を気にする人もなく、どこへでも安心して入っていける雰囲気がある。案内されて一軒の本屋に入ったが特に親切と云う風もなく、かと云ってほったらかしと云うことでもなく、ごく気軽に買い物を楽しめた。但し、裏通りに入るとたまに押し売り、ひったくりの類が出るとのことで気をつけるようにという話。楽器店の集まっている地域もあったが今回はパス。

 サン・イシドロ地区はリマで最も高級な住宅街、ホテルも五つ星ばかり。たまたまながらペルー最後の夜をこのホテルの一つで過ごすことになった。セントロのような喧騒はまるで無く、窓から見える風景は緑に溢れた瀟洒な住宅ばかり。隣にはリマ・ゴルフクラブがあって閑静なものである。
 この地区を少し北西に行ったところに日本秘露文化友好協会があって移民資料館、日本食堂などが併設されている。図書館もあってコンピューター室からは問題なく日本語の書き込みができるようだ。日本語図書は勿論、日本の雑誌、マンガなどがたくさんあって楽しい。帰国する前の日、ここの食堂で天麸羅うどんを食べた。天麸羅は白身の魚、カボチャ、茄子、キュウリなど賑やかだ。ただうどんは腰が無く、それがペルー風であるようだ。麺類はスープに分類されていて、ペルーの人はそれから主菜を食べている。まったくペルー人の食欲には驚かされる。メニューにはセビッチェ定食なるものもあって興味を引いたが、残念ながら私はそれ程食欲が無く、食べられなかった。とにかくこの日秘会館は旅に疲れた心と体を、ほっこりとさせてくれた。

 ミラ・フローレス地区はサン・イシドロに次ぐ高級住宅地。天野博物館を見学したついでに周辺を歩いてみた。その名のとおり、どの家でもその前庭に奇麗な花壇が設えられていて、歩いていて気持ちがいい。治安もいいようで、町の商店に鉄格子はあるものの大きく開かれていて、中に入って品選びができる。8年前、リマは素晴らしく奇麗な町だという印象を持ったのはこの地区からほとんど出なかったせいだと言うことが判った。

 リマの南の入り口、海岸沿いのパンアメリカン・ハイウェイに向かう辺りがバランコ地区。この辺りには小さい家が並んでいて少しゴミゴミしている。所謂、低所得者層が多く住む地区のようだ。私は長く医療関係の仕事をしてきた。その診療圏はこの地区と同じように低所得者が多く住む地域を対象としていた。二三十年前までは寄せ場と言われる廃品の集積作業場が点在し、皮革を使った家内工業に従事する人がたくさんいた。そこに住む患者さんは皆心暖かい親切な人たちであった。乱暴者もいたが気心が知れると、欝屈するものを抱えてはいても、本心は心優しい人ばかりだった。したがって、こう云う地区の人たちとこそ交流を持ちたい、とは思ったのだが…。旅先でしかも言葉の不自由なものが簡単にできることではない。残念な思いで車窓から行き過ぎる町を眺めた。

サンイシドロ地区のホテルから見た風景。


 ビキさんは私達の知人のお姉様でいらっしゃる。その知人とは日本在住のペルーの方で、現在ペルーの民芸品などを商っておられる。知人と云っても深いお付き合いがあるわけでなく、今回の旅行にあたって僅かなご縁を頼りに色々アドバイスを請うたところ、一つ一つ丁寧にお教えくださった上、親切にもビキさんを紹介してくださった。

 当初私達はホテルに拠を置いて、それからビキさんのお宅を訪問して色々リマのことを教えていただくつもりをしていたのだが、空港に従兄弟のワシさんとともに出迎えてくださったビキさんは「あなた達さえよかったら私の家に泊まりなさい」といってくださった。そのお言葉に甘えることにした。但し、実際に泊めていただいたのは階下に住む大家さんの所有する部屋で若干のお礼が必要とのこと。それにしても西も東も判らない我々にとってはありがたいお申し出であった。
 ビキさんのお宅は先にも書いたがリマ市の北西、やや郊外の住宅地のなかにある。三階建ての中々瀟洒なお家で、ビキさん一家はその三階を使っておられる。その階だけでも日本で云う3LDK、広々としている。私達の泊めていただく部屋はホテルとなんら変わらない立派な部屋であった。

 ビキさんはご主人を早く無くされて、長男エリック君、長女ヒメナちゃん、姪御さんのカティちゃんの四人で暮らしておられる。

 エリック君はペルー国家警察の現職警官で、かつ幹部警察学校の学生でもある。ビキさんにとっては大いに自慢の息子で、彼の制服を持ちだして
 「ほら見て、肩にポリシア・ナシオナルって書いてあるでしょ。頭がいいのよ。スポー ツも万能よ」と手放しで誉めちぎる。
 そしてわざわざ制服に着替えさせて我々に披露してくれた。エリック君は少しはにかみながら写真撮影にも応じてくれた。エリートであるだろうに気取ったところのない真面目で純朴そうな青年だ。勤務と学校の両方で忙しいらしく、家に帰ってきてもすぐに警官の制服から学生の制服、また背広にと着替えてあわただしく出ていった。

 カティちゃんはペルー人にしてはほっそりとした奇麗な娘さん。普段着姿を見て高校生くらいかと思ったのだが外出の際にはピッタリとしたTシャツとへそだしのミニスカートというセクシーないでたち、改めて年齢を聞くと21歳とのこと。でも色っぽいと云うより、あくまでも可愛らしい。リマの若い娘さんは皆こういう格好をしている。この人とヒメナがリマ市内を案内してくれた。

 ヒメナは10歳。とんでもない爆弾娘。くりくり目玉の可愛らしい顔をしているが、体重は妻の1.5倍、でもおデブちゃんではない。あくまで固太り固太り。日本の相撲が大好きで「ミトゥルゥ(私のこと)相撲を取ろう」と四股を踏む。組んでみるとすごい力でタジタジとなる。妻など一旦ベッドに押さえ込まれるとまったく身動きができず手足だけをジタバタさせている。とても人なつっこい性格で「カスゥミ(妻のこと)、ミトゥルゥ遊ぼう、遊ぼう」と寄ってくる。相撲は指相撲で勘弁してもらうが、これがまたすごい握力をしている。部屋の中でバレーボールもする。片手レシーブが珍しいらしい。さすがにビキさんが「あまり騒いじゃ駄目」と怒る。寝る直前までペルー式カルタで神経衰弱やオセロゲームをして遊んだ。ナスカへ向かう朝はバス停まで付いてきて別れを惜しんだ。悲しげだった。惚れられたかも知れない。



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