ミゲルのペルー再訪記

第九章 チチカカに浮かぶ島々

第一章 目的・道程

第二章 空港・飛行機

第三章 リマの風景・ビキさん一家

第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ

第五章 ペルーの交通事情

第六章 クスコ、慕わしい町

第七章 ペルーの博物館

第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア

第九章 チチカカに浮かぶ島々

第十章 ゴーバック・トゥ・マイホーム

第十一章 ペルー雑感

2月13日(同6日目)
 朝食の時アメリカ人の小娘18歳ぐらいがペルー式コーヒーが分からず原液で飲んでいる。「お湯を足すんだよ」と注意してやるがどうも通じていない。「苦かったろう」と言うと「大丈夫」と平然としている。可愛気がない。

 タキーレツアーはホテルの前でピックアップ。船に乗る段になって調度私達の前で満席となる。どうしたらいいんだと迷っているとピックアップ係の女の子が「パラミ、パラミ」と言ってどんどん違う方角へ歩き出す。そんなスペイン語知らんぞ、と一瞬悩んだが「フォロー・ミー」のことだと思い当たった。付いていくと数段上等の船に案内される。追加料金があるんじゃないかと思ったがそのようなこともなく結局最後までこの組みで廻ることになる。

 私達の組は20人くらい。色々な人がいる。老夫婦、カップル、友達、親子連れ。チリ、アルゼンチンなど南米の他の国の人とアメリカ、ヨーロッパから来た人が半々くらい。国内旅行中のペルー人ご夫婦も何組かいた。

 船は比較的ゆっくりしたスピードで進む。琵琶湖のように高速で驀進するモーターボートなどいない。どうも規制が厳しいようだ。もしこの湖面に白い航跡を引いて驀走する船があったら、折角の風と太陽の湖チチカカのイメージが台無しになる。剃刀で傷を付けるようなものだ。こういう規制はペルー人の見識を感じさせるものだ。
 チリから来たカップルがライフジャケットを付けて船の屋根に上がったので私達も続いて上がる。男性の方は髭もじゃだがまだ若そうだ。女性は陽気なプクプクちゃん。この二人が私達のツァーのムードメーカーになる。髭もじゃ君が早速話しかけてくる。  「ペルーは初めてかい?」とか「この景色をどう思う?」とか。私達は
 「ムイ・ボニート」位しか言えない。
 「それは日本語でなんて言うの」
 「とてもきれい」
 「トテモキレイ、トテモキレイ、トテモキレイ…日本語を覚えた」
女の子はケラケラ笑っている。

 私達のガイドはアランという30代の渋い男前でどこかインカエクスプレスのガイドのマヌエルに似ている。マヌエル同様スペイン語と英語を交互にかつ切れ目無く喋ってガイドする。私達にはほとんど聞き取れない。
 アランは日本語が少し話せて、あらん限りの語彙を動員して私達に対応してくれた。アマンタニ島に着いたときに「アタマニキヲツケテ」と言われ何のことかと思ったのだが宿泊先の部屋に入るときに納得した。入り口が極端に低くて屈んだつもりが屈み切れてなくて頭をゴッツンコしてしまった。
アランはチチカカをティティハハと発音する。伝統を重んじるタイプのようだ。

 船はまずウロス島へ。ウロスは今ではどなたもご存知の葦の一種(?)トトラで作られた人工の浮島で、ケチュアの一支族であるウル族という人達が住んでいる。ウル族はその昔アイマラに圧迫されて湖に逃れたという伝説がある。尤も純粋のウル族はもう絶滅したということだが……。
 8年前には無かった物が色々ある。まずはホテル、そしてインターネットカフェ。ホテルと言ってもトトラで作ったコテージが五つほど並んでいるだけ、中にはトトラのベッドが設えてある。結構現地の気分が味わえるかも知れない。事務所兼売店兼レストランのトトラの家があってパラボラアンテナで衛星回線とつながっているそうだ。しかし照明は石油ランプしかない。何か目茶苦茶アンバランスだ。
 全長10メートルもありそうなトトラの船が作られている最中で、ウルの人がその構造や製作法を説明をしているが、イギリス人の母娘がスペイン語がわからず髭もじゃ君が通訳をする。髭もじゃはなかなか親切だ。この船には30人が余裕で乗れるとのことだが、いつからこんな大型のトトラ船を作るようになったのだろう。8年前はせいぜいが10人乗りで、4〜5人乗りが普通だった。いずれ観光客を大量に乗せるための物だろうが、かえって観光資源を破壊することにならなければいいがと思っていると、何と湖にこの船を2台繋いで間に構造物を建ち上げた双胴式の船が浮かんでいる。100人位乗れそうだ。
 元々トトラの船はウル族の人たちの生活の足としてまた漁の道具として2〜3人乗りの小さな物が湖を行き交っていたのだ。ここまでやっては、やり過ぎだろう。

 トトラといえば思い出すことがある。昔、ベッツイ・アンド・クリスと云うデュオがいて『パピルスの船に乗って』などと云う唄を歌っていた。私が二十歳前後の頃のことだ。この唄には下敷きがあって、トール・ヘイエルダールと云うトンチキなオジさんがコンティキ号と云うバルサ材の筏に乗って太平洋をペルーからポリネシアに渡った。それでポリネシアとペルー海岸地方とに共通する文物がある理由を証明したと言った。
 そのトールおじさん、次はチチカカのトトラ船と古代エジプトのパピルスの船の構造が同じなのに目を付けて、古代エジプトと南米の人達は葦船を使って大西洋を行き来していたと言い出した。そしてとうとう葦船ラー号(ラー 世号)というのをパピルスで作って大西洋を渡り切ってしまった。この唄はそういうことを踏まえて作られた。その頃から私はいつかチチカカのトトラの船に乗ってみたいと思っていた。8年前、まるで水の上に立っているかのように小さなトトラの船に乗っているオバちゃんを見たときは本当に感動したものだ。
 ついでに言うとトトラの船もパピルスの船も本当は“葦船”ではない。トトラもパピルスもカヤツリグサ科の植物で太い藺草の様なものだ。イネ科の葦とは全く違う。

(左)
 ウルの家で説明するガイド、アラン(右端)


(右)
 双胴式のトトラ船。本当にこんなもの昔は無かった。
(左)
 ウロス島のホテル、カミサラキ・イン


(右)
 気のいいツアー仲間達

 アマンタニ島に到着。今夜はここに泊まる。但し宿泊施設が無いのでツァー会社が契約した農家に2〜3人づつ分宿することになる。民族衣装を着た女性がたくさん浜に集まって来ていて、アランがどの組みが誰の家に泊まるのかを振り分ける。順番で言うと私達はちょっと恐そうなオバちゃんに当たる筈だったのだが、オバちゃんは私達のほうに来ないでアランと何か話している。どうやら東洋人は嫌だと言っているらしい。するとアランはその中で一番若そうな娘さんを私達の担当に指名した。この娘さんは全く嫌がる風もなくニコニコして私達のそばにやって来た。
 彼女はアメリア18歳。アメリアは糸繰り駒を回しながら私達の先に立ってどんどん歩いていく。結構坂がきつい。歩きながら
 「民族衣装を来ているのは観光客用かい。糸繰り駒はどうなんだい」と聞いてみると 「民族衣装を本当に着るのはお祭りの時とか結婚式の時よ。今日はあなた達のために 着ているの。糸繰り駒も同じだけど毎日やるから結構沢山糸を作れるのよ」とのこと。島を1/3ほども登ってやっとアメリアの家に着いた。ゼイゼイ息が切れる。アメリアの家は両親と弟の4人暮らし。本当はお兄ちゃんが3人いるのだが皆出稼ぎに出ているとのこと。ご両親はごく善良で素朴な良い感じの人だった。

 一服の後、小学校のグラウンドに集合。アランの案内で島の頂上にあるインカ時代の神殿跡を目指す。そこからの夕日が素晴らしいという。
 ところが若い人は皆かったるいから残るという。若者のダルイ・カッタルイは世界的傾向のようだ。あと少しで頂上という頃になって雨が降りだした。卒然来驟雨。夕日どころではない。妻にビニールポンチョを着せるが風で捲られて用をなさない。裾を括ってやるが今度は腰から下が丸出しになってずぶ濡れになる。このポンチョは出発間際に港で買ったもの。1枚5ソーレスは明かに観光客値段で何とか3.5ソーレスまで値切ったのだが今にして思うとよく買っておいたものだ。
 集合場所まで戻るとアメリアが迎えに出てくれていた。家に戻って竈の火に当たらせてもらうよう頼んだのだが、アメリアのお母さんは「近くにお寄り」と言ってくれるのものの火に一番近い自分の位置は譲ってくれない。どうやらそこは主婦の座と言うべきもので滅多に他人に座らせるところではないようだ。夕食の後、先程の小学校で民俗舞踊の講習会がある予定で大いに楽しみにしていたのだが、寒くてそれどころではない。たった一泊と高を括っていたので着替えを持ってきていないから、腰から震えが来るようだ。早々にベッドに入って温まろう。それにしても民俗舞踊に参加できなかったのは残念だった。

(左)
 頭を打ち付ける部屋の入り口


(右)
 アメリアと妻

 しかしここで面白いものを見た。お母さんが火をおこすのにフーフーと火吹き竹を吹いているのだ。ああ日本と同じだとこれだけでも結構面白いのに、この火吹き竹名前を“フクーナ”と言うらしい。「フクーナ言うて吹いてるやないか」と例によって仕様もない一人突っ込みを頭の中でやらかしたのだが、もう一方の頭の中で閃くものがあった。フクーナ、フクーナ、クーナ、ケーナ、バンザーイ、バンザーイ。これまた仕様もない語呂合わせだが、大野晋氏の著作などを読むと子音が続く場合頭のfは割りと欠落しやすいらしい。母音のuがeに転訛することもよくあると言う。であれば、fkunaがkuna→kena→QUENAに変化することも満更有り得ないことでもなかろう。ヒョットしたらフクーナがケーナの語源になったのではないか?。勿論何の裏付けも無い素人考えだが素人ついでにもう一歩妄想を逞しくする。
 お母さんの持っているフクーナはちょうどケーナと同じ位の長さだ。はるか昔、お母さんの使うフクーナを子供が持って遊んでいる。初めはただフーフー吹いて遊んでいるだけだが、ふと底の穴を押さえてフーッと吹くとボーッと音がする。サンポーニャの原形だ。これは面白いと近所の子供達が集まって同じように遊ぶ。そうなると中に必ず一人や二人私のようなイチビリがいて底穴をあけたまま強く吹いてピィーという高い音を出す。ケーナは必ずしも歌口が無くても音が出ることは皆さんもよくご存じのことだろう。その火吹き竹に仮に虫喰いの穴でも空いていたとする。昔は、いや今でもアンデスの人はそうだが、道具を大事にする。虫喰い穴の一つや二つ空いていたところで新調したりしない。指なり掌なりで押さえれば済むことだ。ピィーと吹きながらこの穴を押さえたり放したりすると音高が変わることを知る。歌口もなんらかの偶然かあるいは頭の良い人間がいて、音が出るのはエッジトーン、つまり筒の縁に息を吹き当てることで鳴るのだと知れば、もっと縁を尖らせればもっと良い音が出るのではないかと考えるのは自然なことだ。そこでその辺の石にでも擦り付けて歌口を作る。その証拠に古いケーナは皆表側からだけ歌口が削ってあって裏側から削ってある物はない。ないと言い切るのはあちこちの博物館を見て廻った結果だ。やがてお母ちゃんが「道具をおもちゃにしたらアカン」と怒るので改めてその辺からリャマの骨なり竹なりを拾ってきて専用のものを作る。ケーナ誕生だ。
 問題はそれが何時何処で起こったかだ。最初にモンゴロイドがべーリング海峡を渡ったのが2〜3万年前、アンデスに至ったのが1万4〜5千年前、ホーン岬に到達したのが1万年前とされる。その時すでに旧大陸からケーナを携えて渡ってきたのかそれとも新大陸で独自に生み出されたのかだが、指穴のあるフルート様の楽器が確認できる最も古い例はフランスのポワチエ遺跡の出土品で5〜6千年前、エジプト古王国の壁画にあるのが4〜5千年前。アンデスのケーナで古いものはチャビン期の2千7百〜2千2百年前のもの。旧大陸から携えた可能性もないではないが、弓矢、車輪を伝えなかったことなどと考え合わせると、同種の縦型フルートは世界中に分布するとはいえ、やはりケーナはアンデスで独自に創造されたものだろう。とするとこの私の空想もあながち妄想とばかりは言えないかも……。
 火吹き竹がフクーナと言う、たったそれだけのことからガタガタ震えながらも退屈しない夜を過ごした。

2月14日(同7日目)
 朝、アメリアが例の衣装で船着き場まで送ってくれる。ボーイフレンドが来ていて私達が去った後、浜辺でしばしの語らいを楽しむのが本来の目的のようだ。それでも一通り別れを惜しんで挨拶をする。

タキーレの山道から見下ろす船着場

 タキーレには約1時間で到着。チチカカ湖の周辺は基本的にアイマラ族の生活圏なのだが、何故かアマンタニとタキーレに住んでいるのはケチュアの人々。顔つきもプーノの人よりもクスコの人に似ている。大昔、アイマラの人達がやってきたとき取り残されたということだろうか。
 島はアマンタニより大分勾配がきつい。一気に頂上付近のビジターセンターまで登るという。アランが「皆さん。決して無理しないで自分のペースで登ってください」と言っている。私達を見つけると「ユックリ、ユックリ」と日本語で声をかけてきた。あちこちに2〜3人づつ島の男達が屯して編み物をしている。TVでよく見る通りの風景だ。
 ビジターセンターでは色々な織物が展示即売されている。ポンチョや帯、鞄、タペストリー、帽子、どれも素晴らしい。土産物としては1級品だ。しかしそこそこの値段、目の保養をする。

 ここでもタキーレ紐を捜すがなかなか見つからない。ようやく4本だけ見つけた。プーノの町で買うより1ソルだけ安い。輸送コストと言うことだろう。
 ここの品物には全て生産者の名前と希望販売価格が書かれたタグが付いている。つまり正札だ。販売員は商品が売れるとこのタグを切り取って後日タグと手数料を引いた料金を生産者に返還するというシステムとのこと。ペルーでここまで明確な正札販売はここだけだった。勿論付いている価格は観光客向けだったが人をみて値引きしたり上乗せしないと言うのはやはり気持ちの良いものだ。

 センターの前に腰掛けて遅れてくる人を待っていると3〜4歳くらいの子供達が何人もやってきてタキーレ紐のミサンガを買ってくれと言う。両手を広げて
 「これ位の長さのが欲しい」と言うと一旦どこかへ行って5分位でまた戻ってきた。普通の長さの紐を1本だけ持ってきて「はい」と言って差し出す。「OK」と値段を聞くと20ソーレス。それは如何にも高い。
 「このセンターで4ソーレスで売っている。こんなに高いのは買えないよ」と言って断ると横で聞いていたアメリカ人の兄ちゃんが
 「言い値で買ってやれ。この子供達は貧しいがあなたは金持ちなんだから」と言う。
 「残念だが私はチャリティが出来るほど金持ちではない。むしろ貧乏人だ」と言うが首を振っている。本当は
 「これはオネスティの問題だ。この子供達に人の足下を見る様なことをさせてはいけ ない」ぐらい言いたかったのだが私の語学力では無理だった。
 第一私の見るところタキーレの人もアマンタニの人も決して貧しくはない。確かに現金収入の道は多くないのだろうが農業と漁業で充分自足しているように見える。どの人も穏やかなゆったりとした表情をしていた。この当たりの土地所有がどうなっているのかは知らないが島の人達の間に格差はほとんど感じられなかった。

 昼飯、アランが4〜5種類の料理とその料金を説明して、手を上げさせて注文を纏めていく。妻に「なんて言うてるの」と聞くと「聞き取れない。後でアランにもう一度説明して貰う」と言う。そんな手間を掛けさせるのは嫌だなと思っているとアランが「ソロ・ペスカード」と言うのが聞こえた。肉よりも魚がいいと思っていたところだ。思わず手を上げる。妻も続いて手を上げた。心なしかアランもホッとしているように見える。「こいつら、ちゃんとスペイン語わかってんのやろか」と心配していたのだろう。
 運ばれてきた料理はソロとは言うもののご飯も野菜もタップリと付いていてボリューム満点だった。

 プーノへ戻る途中突然の雷雨。湖面に何本もの稲妻が突き刺さる。窓が曇って全く前が見えない。船長が息子に舵輪を取らせ、自分は外へ出て進路を見張る。ご苦労なことではあるが回転式ワイパーと曇り留めぐらいは装備したほうが良い。
 港でアランとお別れ。「色々気を配ってくれてありがとう」と言うと照れくさそうに「どういたしまして」と言った。バスでそれぞれのホテルへ送ってもらう。私達が最初に降りることになる。バスの中からみんなで見えなくなるまで手を振ってくれた。



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