ミゲルのペルー再訪記

第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア

第一章 目的・道程

第二章 空港・飛行機

第三章 リマの風景・ビキさん一家

第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ

第五章 ペルーの交通事情

第六章 クスコ、慕わしい町

第七章 ペルーの博物館

第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア

第九章 チチカカに浮かぶ島々

第十章 ゴーバック・トゥ・マイホーム

第十一章 ペルー雑感

2月 8日(プーノ初日)
 標高4100メートルの峠を越えるとチチカカが見えて来る。その岸に辺張り付くようにプーノの町が見える。湖の色を映したように青く霞んでいる。“シウダ・デル・ラーゴ=湖の町”だ。この町には果たして何が待っているのだろう。

 プーノのバスターミナルに着くや否やタクシーの運ちゃんがやって来て強引に荷物を運んで行く。とにかく料金を確認すると3ソーレスと言う、なんだ安いじゃないか。乗車後も何くれと話しかけてくれて愛想も良い。ガイドブックには強引な客引きには気をつけろと書いてあるがナスカでもコラコラでも客引きやタクシーにボラれたということはなかった。聞いてみるとそれぞれ縄張りがあって逆に変な奴が割り込む隙はあまり無いと云うことだ。ただ競争が熾烈なのでついつい強引になるとのこと。「じゃあ、ターミナルや空港のタクシーは安心だね」と言うと「不心得ものはどこの国にもいる。そうじゃないかね」と言われた。
 後の話になるがリマに戻ったとき空港公設タクシーの運ちゃんにセントロまでの料金を聞くと相場の2倍以上の50ソーレスと言うので、断ろうとすると事務所に案内されて事務員からそれが正当な公設料金であることを説明された。「流しのタクシーの方がずっと安いじゃないか」と言うと「そのかわり何処に連れていかれるか分からないぞ」と脅す。リマでは何度も流しのタクシーに乗ったが危ないと感じたことなど一度もなかったし、それほどボラれたこともなかった。たまたま運が良かっただけと言う見方も出来るが、とにかく一番ボラれた感が残ったのは公設タクシーだった。

 プーノでのホテルは諸般の事情で12日からしか予約を入れていない。それまでの4泊を過ごす宿が必要だ。ガイドブックの“親日的”“アットホーム”という文言に魅かれてピノ広場近くの“ロス・ピノス・イン”に投宿する。オーナーが出てきて対応してくれる。背の低い、色の黒い、顔のゴッツいオジさんだ。特別愛想がいいとも感じなかったが、その後あんなに何くれとお世話になるとは思わなかった。
 「どんな部屋がいい?」と聞くのでガイドブックの写真を見せて、
 「この写真の部屋がいい」と言うと
 「OK、20ドルだが18ドルでいいよ」と言う。ガイドブック提示は2ドル引と書いてあったのは本当だった。

 大体ペルーではツインで50〜60ソーレスも出せばちゃんとしたホテルに泊まれる。部屋は清潔だし、書き物机やクローゼットも備えてあるし、トイレの水はちゃんと流れる。シャワーも熱い湯が出るが、但しシャワーは時間によって湯が出ないことがある。ソーラーシステムなので宿泊客がみんな長風呂だと貯められた湯を使い切ってしまうらしい。夜中や朝方は要注意だ。テレビは付いているが室内アンテナのところが多いせいで必ずしも奇麗に映るとは限らない。集合アンテナのホテルはその心配が無い。  エアコンは元もと必要が無い。昼間は暑いと言っても日本の夏のようではないし、夜は暖かい毛布があれば事足りる。起きていたければロビーでストーブにあたりながら片言で四方山話をするのも面白い。とにかく快適に過ごせる。
 それ以上に高いホテルに泊まるのは無駄に近い、と私は思っている。確かに建物は奇麗になるし、ロビーは広くなるし、装飾・絵画の類も立派になるが基本のサービスが変るわけではない。部屋自体もさほど変わらない。リマでかなり値段の高いホテルに泊まったがエアコンが無くて往生した。セントロの大通りに面しているので窓を開けると自動車の騒音がうるさくて寝られないし、堪り兼ねて部屋を替えてもらおうとドアを開けたら、扇風機を持ってホテルのオジちゃんが立っていた。
 もっとも200ドル以上出すと話は全然違って来る。まるでアメリカに来たのかと見まごうくらい質の違うサービスを受けられる。リマで帰りの飛行機が遅れ、飛行機会社持ちでサン・イシドロのロス・デルフィーネスという一泊220ドル以上する五つ星ホテルに泊まった。フロントスタッフは乙に澄ましていたが丁寧だし、レストランスタッフは親切で夜中というのに私たちの為だけにディナーを用意して付きっ切りでサービスしてくれた。朝食にカフェテリアに行くとプールにイルカが二頭泳いでいる。泊まり客は白人の親子連れが多く、いかにもリゾートホテルと謂う雰囲気を醸し出している。ペルー人らしき客は見当たらない。玄関やロビーにはスーツ姿のガードマンやガードウーマンが何人も警戒に当たっていて何かものものしい。スタッフは私達がロビーに出て行くとさりげなく世話を焼いてくれる。チェックアウトの時、荷物だけはもう少し預けておきたいなと思っていると何処からともなく優しげな兄ちゃんが現れて「お預かりします」と言うと半券をくれて荷物を何処かへ持って行った。もちろん出発の時にはフロントに半券を見せると荷物がスッと出てきたことは言うまでもない。気持ちはいいのだが、しかしこれでは日本にいるのと変わりが無い。
 逆に安宿を捜せば15〜20ソーレスで充分泊まれるらしい。8年前クスコで偶然に出会ったナカノクンとヨキシートと云う日本の友人達は値切って8ソーレスと云う宿に泊まっていると言って笑っていた。

ロス・ピノス・インのオーナー夫妻。

 夕食を摂りに町に出る。着いたばかりなので無難なところ、ついでにフォルクローレが聞けるところをと思ってドン・ピエロという店に入る。お勧め魚料理を食べると美味しいのは美味しいのだが結構高い。それもその筈ここは看板に観光客用レストランと書いてあるお値段が観光客用のレストランだった。
 コンフントはベテランと初心者を取り混ぜたような五人組で上手いのか下手なのかよく分からない。コンドルとかサリリとか普通のフォルクローレを4曲ほど演奏するとCDを売りに回って来る。なんと25ソーレス。誰も買わないので「今日はもう終わりです」とさっさと帰ろうとする。そこで「セリート・デ・ワクサパタを演ってくれ」とリクエストするがみんなでゴチャゴチャ話をしていて一向に演奏しない。これは曲を知らないのだなと思ったがしかし仮にもプーノのコンフントがセリート・デ・ワクサパタを知らないなんてことがあるだろうか何て思っていると突然演奏が始まった。今までで一番良い演奏に思える。どうやらこのケチな日本人のリクエストに応えてどれぐらいチップが期待出来るかを延々検討していたらしい。私としては大奮発の10ソーレスを渡した。  ピノ広場に戻ると教会の前で100人編成位のバンダが演奏していて大勢の群集が取り囲んでいる。この教会がサントゥアリオ・ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア。何とか前に出て見物すると聖母祭に参加する地区バンダの一つだろう、揃いのジャケットにキメた男女がマーチを演奏している。地元の人も曲目が不満なのだろう「ティンクをやれ!」とか「モレナダをやれ」とかの声が飛ぶ。するとクンビア“ウナ・ミラディター”を演り出す。それでも普通のマーチよりは良いのだろう、群集から「オォ〜」と歓声が上がる。パーカッション・パートが格好良い。大太鼓2台とスネア数台ボンゴ1台シンバル2人が掛け合いで撥を放り投げたりクルリと回ったりと派手なドリルを演じてその度に観衆から大きな拍手が沸く。すると突然教区教会旗がスッと上がるとバンダが一斉に前に出てきた。「うわっ、何か迫って来よる」と思うとクルッと横に曲がってリマ通りを演奏しながら行進していく。私達は当然最後まで見届けようと後を追っていくと冷たいものがポツリポツリと顔に当たった。見る間もなくザーァッと雨が降りだす。みんな慌てて両側の軒下に隠れる。バンダもフニャ〜と演奏中止の流れ解散。

 すると絶妙のタイミングで「ポンチョ、ポンチョ、ビニールポンチョ」「パラグアだよ。パラグアだよ。傘はいらんかねー」と売り子が雨具を売り歩く。まるで図ったようなタイミングだ。結構外国人観光客が買っている。しかし2〜3日もするとネタは上がった。何のことはないプーノでは雨季の間、毎晩8〜9時になると必ず雨が降るのだ。そういえばクスコでもほぼ毎晩夜中過ぎから明け方に掛けてシトシトと雨が降っていた。何の不思議もなかったのだ。


2月9日(同2日目)
 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア=蝋燭の聖母祭=聖燭祭はカソリックの祝祭の一つでキリストの復活・昇天を見届けたマリアの心情を祝ったものとされている。英語ではキャンドルマス、一般には大天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした日と言われているが、私は小さい頃にそのように習った。ような記憶がある。いずれにせよ幼少の砌、「目出度し、聖寵満ち満てるマリア。御身は女の内にて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う。云々」と唱えた記憶がある。世界中の聖母信仰の厚いところで大きな祭りが行なわれているが、ここプーノのそれはそのパレードの壮大さで世界に冠たるものである。今年は65の団体がそれぞれ200人規模でパレードに参加する。
 プーノやフリアカの地区・教区代表、青年団代表というのが多いが、“ペルー国家警察デアブラーダ友達”ナンテのもある。どのグループも人数の約半数が踊り、半数が演奏隊という構成になっている。私の友達にはこの祭りをサンポーニャ祭りと呼ぶペルー人がいるくらいで昔はサンポーニャ隊が祭りの中心だったのだろうが今はサンポーニャは5〜6隊ぐらいで殆どがバンダになってしまっている。

 今日は日本の友人から紹介されたワクサパタ地区の世話役さんのお宅を訪問してサンポーニャの練習に参加させてもらうことになっている。今日明日と練習に参加して11日12日のパレードに参加させてもらおうと言う目論見だ。朝一番に連絡をすると午後2時に来てくれとのことだった。ホテルのロビーに下りていくとオーナーが
 「今日はどんな予定なんだ」と聞くので
 「昼からワクサパタの友達のところへ行ってサンポーニャ隊の練習に参加させてもら う」と言うと
 「そうかい。それじゃ、この音楽を聞いてごらん」とシクリのCDを掛けてくれる。
 「この辺のシクリアーダだ。ワクサパタのとは少し違うかも知れないが、大きくは違 わないはずさ。参考にはなるだろう」。心づかいがとても嬉しい。

 約束通り2時に訪問するとマリアさんという女性が迎えてくれる。友達に紹介された人のお姉さんで紹介されたご本人はボリビアに出かけていて明日か明後日、祭りの始まるギリギリに帰ってくる予定だという。これからどうすればいいのかを聞くと
 「もう練習は終わっちゃっているわよ。パレードは11日12日だけれどお祭りは今日から始まるのよ。あなた達どうしてもっと早く来なかったの」と言う。
 どうやら連絡に齟齬があったようだ。日本を発つ前の話では10日にプーノ入りして夜少し練習すればパレードに参加出来るとのことだったので、それより1日半も早く着いているので私達としては充分余裕を見た積もりだったのだが、甘かった。今思うとクスコで滞在先の近くに日本語インターネットがなかったのも原因の一つだ。仕方がない。 「取り敢えずほかの役員さんと相談するから4時半にもう一度来て」といわれ4時半に再訪すると、マリアさんがにこにこして、
 「OK、OK。みんなの了承を取り付けたわよ。早速曲を覚えて」とCDを聞かせてくれる。18曲程入っている。どれを演奏するのか聞くと
 「全部よ、これをランダムに演奏するの」とこともなげに言う。
取り敢えず手持ちのサンポーニャで音採りを始めると、
 「ダメ、ダメ。そのサンポーニャだと皆とピッチが合わないからこれにして」とタブラシークを貸してくれる。これはマズイ。私は最初に習ったときからずっと右上がりでサンポーニャを吹いてきた。タブラシークだと共鳴管が邪魔をして右上がりでは吹けない。妻は左右どちらでも吹ける器用な人なので平気で吹いている。
 四苦八苦しているとヒロさんと言う方が現れた。この人はプーノ在住7年になるという日本の方。この方が、
 「大丈夫、大丈夫、そんなに固く考えなくても。これから何百回と繰り返すので最初 は少々違う音が混ざっていてもすぐに体が覚えますよ。」と言ってくれるので少し安心する。間もなく
 「もう地区演奏が始まるので出かけましょう」と言われ、ヒロさんに付いて行くと大きな道の真中にもう2〜30人の人たちが手に手にタブラシークを持って集まっている。ここでもバンさんという日本人に紹介される。やはり一人でも日本人が多いと心強い。演奏隊のの一人一人と握手を交わして演奏を始める。一仕切り演奏をすると地区を練り歩きながら教会へ向かう。練り歩くうちに一人また一人と演奏隊に加わる人がいていつの間にか5〜60人に膨れ上がっている。あちこちの家から人々が手を振ってくれる。

 教会に着くともう既に役員さんやらお年寄り、子供たちがギッシリと席を埋めている。サンポーニャ隊は後ろに立ってミサに参列する。東洋人のそれも女性と言うのはやはり珍しいのだろう、端のほうの椅子に腰掛けておられる女性がしきりに妻に席を代わろうと言ってくださるのだが、妻は固辞している。小さいので体力が無いように見えたのかも知れない。
 年配の神父様の長い祈祷に皆が唱和するが私達には全く分からない。取り敢えず“アーメン”だけ唱えておく。聖体拝受が始まるが時間の関係だろうかサンポーニャ隊は誰も前に出ない。それが済むと祭壇の横に立ててあった教区教会旗に神父が聖水を振り掛けて祝福をする。すると一斉に“オオーッ”と雄叫びが上がる。
 すぐに裏庭に出て皆の前で演奏する。一曲終わる毎にインカコーラのボトルに入った酒が廻って来る。黄色い色をした酒で、最初見たときはてっきりただのインカコーラだと思ったのだが、どうもラムかピスコがたっぷり入っているらしくかなり強い。5〜6曲も演奏するとヘロヘロになってしまった。

 何順か演奏した後、皆で食事に行くという。私達もだいぶタブラシークに馴れてきてはいたのだが、ここで皆とお別れすることにした。と言うのは11日12日のパレードはコンテストを兼ねていて順位がつけられるという。私達のせいで順位が下がるようなことがあっては申し訳ない。皆は「そんなこと気にすることはないよ」と言ってくれるがやはり心苦しい。もう少し早くプーノ入りしてしっかり吹けるようにして参加したかった。本当に残念だ。

 明くる朝ホテルで朝食をとっているとオーナーが「おやっ、まだ出かけなくていいのかい」と聞くので事情を言うと、「それが良い。せっかくプーノに来たんだ、ずっと同じ人たちと一緒にいるより色々なものをたくさん見たほうがいいよ」と慰めてくれた。
 午前3時ワクサパタの丘からサンポーニャの音が聞こえてくる。ベッドの中でじっと聞いていたが5時になるとバンダの音に掻き消されてしまった。

2月10日(同3日目)
 朝食を摂っているとバンダの音が近づいてくる。オーナーが
 「おーい、日本人。ホテルの前をバンダが通るぞ。一緒に見ようじゃないか」
と誘ってくれる。表に出るとすごい音だ。踊り隊無しのバンダだけの行進だがそれでも150〜200人くらいの大編成だ。チューバ、トランペット、サックス、トロンボーン全てのブラスがそろっている。一番人数の少ないスーザホーンを数えてみると25人もいた。

 今日は買い物で一日を過ごすことにする。まずイオン水を買うため薬局に入るとクスコのマリエちゃんと出会った。友人とお祭りを見に来たと言う。偶然を喜び合う。
 「二度あることは三度あると言うからきっとまたどこかで会えるね」と互いに言い合うが後日その通りとなる。

 ピノ広場の近くには楽器店やCD屋が多く並んでいる。どれも観光客向けで高い料金がついている。CD屋は路地の奥などに地元の人向けの店があって、前にも書いた通り1枚2.5ソーレス位で売っているのだが観光客向けの店では25〜30ソーレス、10倍以上もする。しかも絶対に値引きしない。ドン・ピエロのコンフントが自分たちのCDを25ソーレスで売っていたのも納得できる。それに対して楽器店は地元民向けの店と言うのは見つけることが出来なかった。ホテルのオーナーに聞いても「知らない」と言う。きっとこのプーノの町のどこかにはあるはずなのだが……。

 一軒の楽器店で可愛らしい鉄弦チャランゴを見つけた。祭りの衣装や民芸品が多くてただの土産物屋と間違えそうな店だがチャンとした楽器店。大体この辺りの楽器店は観光客相手の店には違いないのだろうが中身はチャンとしている。入った瞬間、棚の上に置いてあるこのチャランゴが目に入った。妻もすぐにそれと気づき、早速店の親父に頼んで試弾をさせてもらう。小さいギターの形をした、いうところのペルー型チャランゴ。見たところ細工も仕上げもしっかりしている。何より音が可愛らしい。すっかり気に入って値段を聞くと150ソーレスと言う。一瞬途方もない値段に思えたが、よく考えてみると6000円に過ぎない。それでも一応値下げ交渉はしてみるべきだろう。粘った結果130ソーレスにしてくれた。
 ここの親父はただの楽器屋ではない。演奏家として相当なものだ。特にギターは素晴らしい。単音ですら妻が弾いたときと音色がまるで違う。妻が聞いた、
 「どうしたら、そんなに上手く弾けるの」
 「練習、練習。練習あるのみ」
まいりました。

 次にタキーレ紐を捜す。
 昔セルソがケーナを首に懸けるためにタキーレ紐を巻いていて、奇麗だしカッコいいので私もすっかりはまってしまい、自分の使うケーナには必ずタキーレ紐を巻いてきた。タキーレ紐はその名の通りチチカカ湖の中程に浮かぶタキーレ島特産の織物で、その独特の模様もさることながら、織りの密度によるのだろう、適度な柔軟性を持っていて、それにその細さが首懸け紐にちょうど良い。尤も本来はどのような目的に使用されるものかは良く知らない。タキーレに行ったら聞いてみようと思っていたのだがついうっかり聞き漏らした。勿論この細い紐だけでなく幅広の帯や5センチくらいの幅の肩懸け紐も織られていて土産物としてはそちらのほうが数が多いようだ。もう一つタキーレの特産と言えば色鮮やかなチューユが思い出される。独特の幾何学的な模様と蛍光色のように見える色使いで、これは全て男性の手によって編み出される。後日タキーレを訪れたとき道端でせっせと帽子を編んでいる男性を何人も見かけた。10歳くらいの少年からお爺ちゃんまで男性は皆これをやるらしい。

 このタキーレの特産品はペルーではタキーレ本島かプーノでしか売っていないとのこと、むしろ日本の“アンデスの民芸品店”と云うようなところで良く見かける。私の使っているタキーレ紐も全て8年前にここプーノで買ったものだ。それもそろそろ尽きかけている。あと10本ばかりは補充しておきたい。ところが土産物屋をくまなく捜すがまったく見つからない。帯の広さの物はタキーレ製のいいものがどの土産物屋にも置いてあるのだが、あの細い紐は見当たらない。前に買った店を必死に捜すが大分様子が変わっていて、もうあの店を見つけるのは無理なようだ。諦めかけた頃にピノ広場に近い割と大きな土産物屋で売っているのを見つけた。あの独特の模様は変わらないが色糸に蛍光色が混ざっているものが1〜2割程を占めている。以前にはなかったものだがチューユの色使いを意識したものなのだろう。友人達へのお土産にするものと合わせて20本程を買うことが出来た。

 偶然、旗やカップ、飾り物の店を見つけたのでペルー国旗とタワンティンスーユ旗がないか聞いてみた。すると女主人らしい女性が
 「今はテーブルに置くサイズの物しかない、明日仕入れるので明日の昼過ぎに来い」と言う。その通りにすると、
 「仕入れに行ったが問屋にも在庫がない。明日は必ず入荷するので明日また来てくれ」と言う。この調子でいつも尤もらしい理由を付けて「明日、また明日」と言われ、結局プーノにいる間中毎日この店に通った。最後には親父が出てきて、
 「嫁さんがいい加減なことを言ってご免、祭りの期間中は仕入れなんてとても出来な いんだ。悪いが諦めてくれ」と言った。 こちらは日本人の信義に関わると思って他の店を捜さなかったのに。せっかく日本に帰ったら家の屋上にペルー国旗とタワンティンスーユ旗をなびかせよう思ったのに。なんと言うことだ、クソッ。

 腹が減った。昼飯にしよう。中央市場の中二階に地元の人向けと言うより業者向けの食堂がある。食堂と云うより15畳位のスペースに8ヶ所位小さな流し台があってそのそれぞそれが独立して営業をしているようだ。一つの営業単位にテーブルが一台か二台、10〜15人がその廻りを取り囲む。全部で50〜60人の客がギッシリと座っていて足の踏み場もないと云う感じ。当然観光客の姿は見えない。勇気を出して入っていくと、「外国人か、ここを詰めてやろう」と云う人やら、「東洋人、ここが空いているぞ」と云う人やら皆親切だ。
 具沢山のスープとジュースを飲んで結構お腹が一杯になった。コック兼ウェイターの兄チャンに値段を聞くとなんと二人で2ソーレス。安い、しかも物凄くうまかった。この廻りの観光客向けでない一般の食堂でも倍以上する。また来よう。

 ガイドブックを持って歩くのが重いので必要な部分だけコピーをすることにする。
ペルーでコピー屋をさがすのは訳はない。町のあちこちに“フォト・コピア”の看板が出ている。手っ取り早く店のおネェちゃんに「こことって」とやって貰う。料金が20センチモスと聞こえたので10センチモス硬貨を二つ出すと
 「間違っているわ。半分でいいのよ」と一個返してくれた。ペルーの人は大方が正直で親切だ。

 ピノ広場で日向ぼっこ。何故かアルマス広場よりもここのほうが居心地が良い。靴磨きが沢山いるがクスコと違ってほとんどが“プーノ市認可”のチャレコを着用している。中にゲリラ商売をする少年もいるが認可業者も何も言わない。敢えて見逃しているという感じだ。ここでも私の靴を磨かせてくれと何人か寄ってくる。「こんなオンボロスニーカー、磨く価値があると思うかい」と聞くと白い絵具様のチューブを取り出して「案外奇麗になるんだぜ」とニヤリと笑う。一瞬、試してみようかという気持ちになるが本当に今日明日には買い替えるつもりだったのでそのことを言ってお引き取り願った。

 ピンクのディノサウルスがヒョコヒョコと歩いている。風船ヨーヨーを売っているようだ。こっちへ来ないかな、来れば私も風船ヨーヨーで遊びたいな。小さい子供の所にしか寄っていかないか。それにしてもナンカのどかだな。アドキネス・デ・ヨグール=ヨーグルト味のアイスクリンを喰おう。20センチモスだった。

(左)
 ビルヘンデラカンデラリア聖堂。


(右)
 ピンク・ディノ。

 そうこうするうちに、もう日が落ちる。晩飯も市場で食べることにして向かったのだが市場の食堂はもう仕舞いかけていた。4〜5人客は残っているもののもう食べ終える様子。入り口で躊躇していると白い割烹着の様なものを着たオバちゃんが「食事をしたいの?」と声をかけてくれたので「シー」と答えると「いいよ、入っておいで」と言ってくれた。何か魚料理を食べたいと言うとトゥルーチャのフライなら出来るという。スープとそれを注文する。料理ができあがる頃には客は私達だけになった。すると先程のオバちゃんともう一人のオバちゃんがやって来て、食べている間中色々話しかけてくる。
 例によって「どこから来たの?」から始まって「あなた達夫婦なの?」「年は幾つ?」「結婚して何年になるの?」等々。妻が年齢を言うと「まぁー、私より年上じゃない。日本人はずいぶん若く見えるのね」と世辞を言う。実際はそれほどでもない。「アホやさかい」とベタをやるがこれは通じない。
 「子供はいないの」と聞くので「いない」と答えると、二人でケタケタ笑いながら何事か喋っている。大体想像はつく。一仕切り笑った後「そう、それは寂しいわね」と同情の言葉をかけてくれる。「それはそうだけど、おかげでこんな外国旅行にも来られるし、結構楽しくやっているよ」と返事をしたら「駄目よ、そんなことを言っては。旦那さんもっと頑張らなくちゃ」と言ってまた笑う。この二人のほうがよっぽど気楽のようだ。
 「ところで、このトルーチャは湖で獲れたものなの」と聞くと、
 「いいえ、トルーチャは川で獲れるのよ」教えてくれる。
 そういえばチチカカ湖には先に述べたラミス川をはじめ、たくさんの川がアンデスの山々から流れ込んでいる。どこかで三十数本と聞いたような記憶がある。それに対して出ていく川はデサガデロ川一本だけ。琵琶湖と同じだ。この鱒もやがて私に食べられるとも知らずに、そうした川の一つで泳いでいた奴だろう。あはれだ。

 市場の脇で盲人の路上ミュージシャンがボンボを叩きながらサンポーニャを演奏していた。ボンボの撥にマラカスを使っていて少しずれたような面白い音を出している。スマックプニとかポコアポコとか馴染みのある曲も演奏する。なんだかすごく良い味だった。

 そろそろ前夜祭が始まる頃なのでピノ広場に戻るともうギッシリと人が詰めかけていて、バンダの音はすぐそこから聞こえるのだが何も見えない。なんとか前に出て一つだけ空いていた高いところにある席に妻を放り上げた。私はその下で立ち見をしたのだが、私のちょうど真前が前へ出ようとする人と後へ戻って別の場所へ移動しようとする人の合流点になってしまいお互いがぶつかり合ってどうしようもない。なんとは無しに交通整理をやらされる羽目になった。
 こういう状況はスリさん達にとっては絶好の機会だろう。左右からグイグイ押されながら「ちょっと待って、この人先に通して」とやりながらも懐中物には気をつけていた。すると突然一人のアメリカ人と思しき青年が群集を掻き分けて走り出すと私の目の前で一人のペルー人の襟首をつかんで引き摺り倒した。殴り掛かろうとするので思わずその手をつかむと「こいつはスリだ」と言って男のポケットを全てさぐったがアメリカ人の持ち物は出てこない。男は「何を人違いしているんだ」と憤然として去っていったがアメリカ人はションボリしている。私ももう一度服の上から持ち物を確認した。どうやら無事のようだ。
 ところがホテルへ帰って改めてみると小銭入れだけがなくなっている。ポケットには祭りのリーフレットやら鍵やら色々小物が沢山一緒に入っていたのに奇麗に小銭入れだけがない。あまりの見事さに本当にスリにやられたのか今でも不思議に思うくらいだ。15ソーレスの損害だった。

 そのうち妻のとなりの席が空いたのでそこに上って腰掛けた。やっとこれでパレードに集中できる。勿論見事なものだった。でも何故かモレナダとディアブロが多い。充分堪能してホテルへ帰るともう11時半で玄関が閉まっている。あわや締め出しかと思ったがドンドンとドアを叩いているうちにオーナーの息子が出てきて開けてくれた。

2月11日(4日目)
 オーナーが「ゆうべは遅かったそうだね。どうせ今日も遅くなるんだろう。玄関のキーを渡しておくよ」と言って鍵をくれる。これで安心。それはそうとナンカ異様に静かだ。気がつくと雨がシトシト降っている。オーナーの奥さんに「この雨で中止かなぁ」と聞くと「大丈夫、やるわよ。第一、雨は絶対止むんだから」と太鼓判を押された。

 コンテストを見るために中央スタジアムへ行く。皆が「エスタディオ、エスタディオ」と言うので当然中央スダジアムのことだと思っていたのだが、ひそっりとして人のいる気配もない。改めて人の多い方へ多い方へと歩いていくと警察署の近くにシモン・ボリバル自由スタジアムと言うのがあって、そこのことだった。ところが入り口が分からない。やっと辿り着いた時にはゲートの係員が満員でこれ以上はどうにも入れることは出来ないと言う。全くゲッソリしてしまった。

 歩き疲れて昼飯にする。旗屋の近くの中級レストラン。勿論地元の人向け。ウェイターの兄ちゃんの要領が悪くて、まとめて注文したのに一品来ると「他のはまだ来ないの」と催促しないと次が出てこない。と言うか、その度に厨房に通しているし、スープが後になったりする。「良い加減にしろ、まとめて頼んだんだからちゃんと順番に出せ」と怒鳴ってやった。勿論日本語で、妻がボソボソ通訳していた。
 料理は前菜とスープと鰈の煮つけを頼んだ。クスコで肉ばかりを食べていた反動だ。全てうまい。二人で13ソーレス、ごく普通の値段だと思う。レジ担当の兄ちゃんは外国人と見て丁寧に内訳をメモして説明してくれたが如何せん字が汚くて読めない。確認の意味で清書したら「合ってる。合ってる」と言って笑っていた。

 そろそろパレードが始まる。ピノ広場に行くと仮設の見物席を増設している。ちょうど良い。ホテルの奥さんから「20〜30ソーレス出すと席を売ってくれるよ」と聞いていたので建築の指揮者の様な人に「席を予約したい」と言うが「完成してから順番に聞くよ」と言われて待っていた。しかし、周りのオバちゃん達が建設中の席に次々ショールやらポンチョを敷いて「ここは私が確保したわよ」とやるので「いい加減しろ。ちゃんと順番に並んで席を買ったのか」と言ってやるが完全無視。頭に来て「おまえら大阪のオバはんとおんなじか」と我ながら訳の分らんことを日本語で叫びながら敷いているものを撥ね除けてやった。
 すると後ろからグイッと引っ張る奴がいるので実力行使なら負けへんぞと身構えると「日本人、日本人。外国で喧嘩をするな。おまえ達の席は俺が面倒見てやる」と怪しげなおっさんがグイグイ私達を引っ張り上げる。いつの間にか完成していた席の最上段に連れていってくれて「さぁ、ここなら眺めが良くて最高の席だぜ」と座らせてくれた。周りの他の客も笑いながら「オバちゃん達の厚かましさは本当に困ったものだね。でも怒ってもあいつら分からないよ」と慰めてくれる。若い男性が多い。こちらも少し恥ずかしくなったが、それにしてもこの人たちはどこから現れたのだ。チケットが発売された様子はなかったし昇降段すらまだ取り付けられたいない。聞いてみると最上段が完成した瞬間、一斉に背面の鉄柱をよじ昇ったらしい。同じ穴の狢か。いつの間にか前のほうの席は先程のオバちゃん達に埋め尽くされている。チケットもヘッタクレもない、こういう場合はとにかく早い者勝ちらしい。

 今日もパレードはとてもきれい。相変わらずモレナダとカポラールが多い。カポラルも最初は娘さんの短いスカートに目が行くが馴れてくるとやはり兄ちゃんのダイナミックな踊りに目を奪われる。私も年を取ったものだ。
 ティンクの一隊が通る。これは素晴らしい。踊りも迫力があるが衣装が良い。なんとは無しにインカの風俗を彷彿とさせる。ポトシの衣装と同じだ。先程のオジちゃんにそう言うと「違う、違う。これはプーノ独特のものだよ」と言う。微妙に違うらしい。
 そこへ白い服にブルーの帽子というスマートな出で立ちのサンポーニャ隊が現れた。ワクサパタのサンポーニャ隊だ。思わず「ビバ・ワクサパタ!」と大声で叫んでしまった。周りの観客が私を見てにやにや笑う。その中の一人が「お前はワクサパタが好きなのか」と聞くので「知り合いがいるんだ」と言うとそいつも「ワクサパタ!」と叫んでくれた。周りの皆も納得したという風にうなずいている。

 モレナダ、シクリアーダ、どの隊も先頭はプーノの晴れ着に身を包んだオバちゃん達の一団と言うことが多い。長いスカートに山高帽、リヒリャという大きなショール、というあのスタイルだ。クッと腰を振るとフワーッとスカートが広がってクルクルクルと腰にまとわりつく。まとわりついたところでまた逆向けにクッと腰を振るとまたフワーッとスカートが広がる。実に華やかなものだが見た目ほどには体力を必要としないようで中年以上の女性が多い。
 若い人はカポラールやティンクに回るようだがこれは如何にも体力がいりそうで4〜5曲も踊ったら膝に手を置いてゼイゼイ肩で息をしている。私なら多分1曲持たないと思う。
 暑さも大敵でディアブロには何故かゴリラのぬいぐるみを着た一団が付き随っているが、調度私達の前で疲れはてて伸びてしまった。最初は演出だとばかり思っていたのだが頭を脱いだ表情を見ると本当にグロッキーになったようだった。

 シクリアーダの踊り隊がやってくる。黒いスカートに黄色い帽子の後飾り、一見なんということのない出で立ちだがスカートの裾に赤とオレンジと黄色のテープでグラデーションのような飾りが施してあって、それが折からの夕日に映えてなんとも言えず美しい。まるで蛍光テープを貼っているようだった。勿論普通の布テープなのだが。

 さてもうすぐ7時半だ。6時間ここに座っていたことになる。まだまだパレードは続くのだがもう充分堪能した。例の怪しげなオジちゃんにお別れの挨拶をしたら
 「今度プーノに来たら案内するからぜひ会いに来てくれ。市役所でマリオと言えばすぐに分かる」と言う。なんとプーノ市役所の職員だったのだ。

 もう市場はやっていないのでその近くの大衆食堂に入る。メニューは色々あるようだがホワイトボードにスープ一品セグンダ二品が書き出してある。周りの人たちも皆それを食べているようなので同じものを頼むように妻に言ったのだが注文取りの兄ちゃんと何か勝手に話を進めている。「ちょっと待て。あのボードに書いたるんでええんや」と言うのに無視する。出てきたものは望んでいたものと全く違う。たしなめると
 「ワタシかてスペイン語あんまりよう分からへんのに、一生懸命アンタの言うこと通 訳してきたやんか。ちょっと上手いこといかへんかったくらいで、そんな怒らんでも ええやんか」
と泣き出す。手に負えない。全く女子と小人は養いがたい。

(左)ワクサパタのシクリ隊 (中)スカートが翻る。(右)ジャメラーダ
ティンク三態
(左)暑さで倒れたゴリラ (中)ごく標準的なバンダ(右)夕照に映える衣装
(左)どっかのシクリ隊 (中)ディアブロ(右)悪魔の虜になった私

2月12日(5日目)
 今日はホテルを移る。ロス・ピノス・インからたった1ブロック先のシュスタニという三ツ星ホテル。ロス・ピノスのオーナーが荷物を持って付いて来てくれた上に
 「プーノにいる間は、何かあったらいつでも頼ってお出で」と言ってくれる。
シュスタニも悪いホテルではないがロス・ピノスに比べれば通り一遍という感じがする。大体ロス・ピノスの倍以上の料金なのだから悪いホテルであっては困るのだが…。
 それにしてもこのホテルではレートが悪い。ロス・ピノスでは1ドル=3.1ソーレスだったのにシュスタニでは3ソーレスにしかならない。つまり100ドル両替したら10ソーレスの差が出来るということで、10ソーレスと言えばペルーではちょっとした大金だ。しかもペットボトルの水が3ソーレスもする。大体ペルーではどこでも水は1本1ソルで買える。このホテルでも隣の食料品店では1ソルで売っている。歩いて2分とかからない。思うにこのクラスのホテルでは全てドル払いなのでわざわざ両替する必要がないのだろう。それで水も1ドルに丸められてしまう。そう思って見ると客は欧米人ばかりだった。

 今日はまずアルマス広場に向かう。もう既に人でギッシリ埋まっている。するとチケット売りのオバちゃんが寄ってきて  「まだまだ良い席があるよ」と言う。
 「こんなに満員で席が空いているはずがない」と言うと
 「みんな、チケット無しで勝手に座っている。そんな人は出ていって貰う」と言う。
と言うことはいつでも席は確保できると言うことだ。それならばあわてて座る必要はない。町の北側にパレードの待機・集合場所が3〜4ヶ所あって、そこでそれぞれの団体が思い思いに最終練習をしていたりする。またそれぞれの地区からその集合場所へ移動するのに正式ルート以外の道を私的にパレードする団体もいる。朝一番で、こちらの方が本番よりも気合いが入っているくらいだ。町をぶらついてこういう練習やパレードに行き合うのが結構楽しい。という訳で今日も市内をあちこち歩き回ることにした。

演奏しながら集合場所に向かうバンダ達。

 祭りの期間中は町の東側、市場から中央スタジアムにかけてデッカイ朝市が立つ。普通の時でも土日にはやっているそうだ。昨日も一昨日も一渡りは見て回ったのだが、今日はおもいっきり買い食いを楽しもう。8年前はイタロやアレックスが「駄目、駄目」と言って買い食いをさせてくれなかった。万一腹でもこわしてはいけないと心配してくれたのだが、食いしん坊の私にはずいぶんと心残りとなった。今日はそいつを取り戻そう。
 ちっちゃな屋台があちこちに出て色々なものを売っている。まずはチューロという花林糖のでっかいようなドーナッツ、それからポップコーン、カステラ、マドレーヌ。どれも美味い。アンティクーチョよりも豚の甘辛揚げに心魅かれる。南米では豚は危ないと聞いてはいたが、なぁーに現地の人は平気で食べている。しかもこれだけカラッと揚がっていれば滅多なことはあるまい。山盛りの豚肉にじゃが芋とトウモロコシがたっぷり付いて4ソーレス。しかしちょっとボラれたかな。
 道を歩いていると威勢の良い兄ちゃんが「リカ、サンディア。甘いよ、甘いよ」と声をかける。スイカの屋台売りだ。デザートにちょうど良い。さっき見た葡萄の袋売りも非常に気にかかるのだが、なにしろ3ソーレスででかいポリ袋に一杯詰めていたから、しかし細長い形にひかれてスイカを喰う。一切れ50センチモス。とても甘い。妻も大満足。

 水を1本買う。すると水売りのオッちゃんがラベルを見せて「ほら、ちゃんとシンガスと印刷してあるだろう。お前の注文通りシンガスだぞ」としつこいほど念を押す。怪しいなとは思ったが取り敢えず喉が渇いていたのでそれを買う。飲んでみると微炭酸。8年前は圧倒的にコンガスが多くて飲みにくい思いをしたものだが今回はアグアと言えば大体シンガスが出てきた。それでも現地の人はコンガスを好む人がまだ多いと聞く。そういう人にはこの程度の微炭酸は充分シンガスで通るのだろう。スイカの甘さの残っている喉にはかえってうまかった。

(左)豚角切りの素揚げ。甘辛くておいしかった。
(中)スイカを食うわけのわからん格好をした女。
(右)出番を待つ間、練習に励む兄弟。

 せっかくプーノに来たのだからワクサパタの丘へ登ろうということでタクシーで向かう。普通ならセントロから4〜5分で到着するのだがパレードを避けて大迂回となる。それでも幾つものティンクの隊列が通りすぎるのを待たないといけなかった。  ワクサパタの丘の頂上はちょっとした公園展望台になってる。アルマス広場、ピノ広場が真下に見えてその先にプーノの町全体が一望できる。そしてその向こうにはチチカカ湖が広がる。水の蒼と空の青が溶け合って美しい。祭りでなければきっとカップルで賑わっているのだろう。
 丘にはインカの王らしき大きな像が立っている。タクシーの運転手に誰の像か訪ねたら「マンコ・カパック」と答えた。  その像の下で女の子が書き物をしている。風景のスケッチかと思って声をかけると何と数学の勉強、ジャニちゃんという地元の高校生だった。懐かしがっていると連立不等式の問題を提示された。簡単な数 の問題だが何せ習ったのは40年前の話だ。イマイチ自信が持てない。解答は後日メールで送った。
 ジャニちゃんにお別れしてセントロへ戻る。帰りは歩いて5分掛からなかった。

(左)ワクサパタの丘から見るチチカカ湖。
(中)丘に立つマンコ・カパック像。
(右)丘から眺めるアルマス広場。

 さて、祭りは今日で終わる。尤もピタッと終わるのではなく1週間ほどかけてスローダウンするらしいが、何れにせよもう充分堪能した。しかしプーノには15日迄滞在する予定が組んである。あと三日をどうやって過ごすか妻と相談する。この機会にボリビアへ渡るか、それともタキーレへ行くか。しかしボリビアといってもせいぜい太陽の島とコパカバーナぐらい迄しか行けない。ボリビアは次の機会に譲ってタキーレ島に行くことにする。タキーレは何度かテレビで見てはいるがひょっとしたらあの生のフォルクローレに出会えるかも知れない。

 ロス・ピノスへ一泊二日のウロス、アマンタニ、タキーレの島巡りツアーの申し込みに行く。ドアを開けるとオーナーがやっぱり来たなという顔をしてニヤリと笑った。



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