第一章 目的・道程
第二章 空港・飛行機
第三章 リマの風景・ビキさん一家
第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ
第五章 ペルーの交通事情
第六章 クスコ、慕わしい町
第七章 ペルーの博物館
第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア
第九章 チチカカに浮かぶ島々
第十章 ゴーバック・トゥ・マイホーム
第十一章 ペルー雑感
|
|
(左)リマ県、フニン県、ワンカベリカ県にまたがる湖群を見る。
(中)アバンカイからクスコへ向かう道。
(右)クスコ、わが慕わしき町に到着。
|
2月 2日(クスコ初日)
我がアミーゴにして我が師にして私がファンであるところのセルソが
「フィデルに連絡をしておく、クスコでは二人だけにはしないよ」と言ってくれていたので、一応は当てにしていたのだが、連絡をする方も受ける方も忙しい人だ。日本を出るまで連絡がどうなったか確認ができなかったので、半ばは当てにしていなかった。
空港を出て、さて何処へ行こうかホテルを探そうかそれとも先にフィデルかフローレンシアの家に行こうかと迷っていると「サクマサン」と言う声が聞こえたような気がした。辺りを見回したが知った顔はいない。空耳かと思ったがもう一度「サクマサン」と言う声がする。出迎えの人混みをもう一度よく見渡すと何処と無く見たようなオジさんがいる。「フィデル?」と聞くと「シー、フィデル」と言う。何だコノヤロー、すっかり貫禄を付けやがって、と思いながらハグ。
フィデルは8年前クスコを訪れたとき彼のコンフント“ウミーニャ(宝物)”を引き連れて若々しく力強いフォルクローレを聞かせてくれた。6年前は半年ほど日本に滞在して京都にも来てくれた。その時はほっそりした好青年だったのに、太ったと言うほどではないにしても大そう貫禄が付いた。そういえばもう二人の子持ちだ。もっとも男女二卵性の双子チャンだが。
フィデルの愛車はオレンジ色のカブト虫。とても可愛い。フィデルの弟のアルバルは18歳、前回あったときはほんの子供でプマウアンカで花を摘んで妻にプレゼントしてくれた。立派な大人になっていたが今もとても優しげな青年である。フィデルと一緒に出迎えてくれた。
車に乗り込んで「ホテルを探してくれないか」と言うと「いいや、まずフローレンシアの家に行こう」と言う。フローレンシアの家はクスコ盆地の北側の山の中腹、サクサイワマンへの道の途中にある。歩けばサン・ブラス教会から30分、下る場合は5分。サン・ブラスからアルマス広場まではやはり5分位だから市内中心部からごく近い距離にあるのだが車だとかなりの大回りになる。「ホテルに落ち着いたら自分たちで挨拶に行くよ」と言うが「そんなことをしたらセルソに叱られる。任せておいてくれ」と言う。
フローレンシアはセルソの下のお姉さん、夫のエスタニシラオさん、娘のアマンダさん、養い子達と一緒に出迎えてくれた。8年前滞在したときの写真を出し合ってお互いの消息を確かめあう。フローレンシアとエスタニシラオは去年の秋日本に来たのだがエスタニシラオは体調を崩して会えずじまい、フローレンシアとも一度だけ皆と一緒に会っただけだった。こうしてゆっくりお喋りできるのはとても嬉しい。
「ベニは何処にいるの?ラムセスはどうしているの」
「ヒロミチャンは元気?シューコチャンも元気?」
と話は尽きない。ここでも
「休憩したらホテルを探す」というと
「クスコに滞在してる間はこの家に泊まりなさい」
と言われてお言葉に甘えることにした。
夕食を終わって「今日はサン・ブラスのお祭りだから教会ヘ行きましょう」と言われる。養い子のルシオとファニの案内で坂道を降りる。
|
(左) フロレンシアの家のすぐ前にはタワンティンスーユの地図がある。
(右) 私たちが泊まった部屋から見たクスコの町。ほぼ全体が一望できる。
|
ペルーをはじめラテンアメリカにはパドリーノと云う養い親の習慣がある。子供が生まれたら実の親の他に養い親を決めておいて実の親に万一のことが会ったら養い親がその子の面倒を見ると云う習慣だ。想像だがこれは元々スペインにあった習慣ではないか、それがインカのアイユの伝統と結びついてアンデスでより強固に根付いたものではないだろうか。いずれにせよ美しい風習だ。一面ややこしくもある。なぜなら親の存否にかかわらず実の子とパドリーノの子は兄弟、従兄弟と呼んだりするからだ。もっとも日本在住のペルー人が日本語に翻訳するときにだけそう言うのかも知れないが…。
ジョバナ、ルシオ、ファニ、アベルの兄弟は両親が亡くなってパドリーノのエスタニシラオ、フローレンシア夫婦に引き取られた。3年前のことだそうだ。
教会の前は既にぎっしりと人垣が出来ていて、その中で30人編成のツナが演奏していた。全員白襟に黒ビロードの上着、ニッカボッカ、マンタという中世スペイン風の装束だ。音楽も何処か中世スペイン風。フォルクローレではない。中にマンタに色とりどりのワッペンを付けて仕切っている兄チャンがいて、とても格好いい。日本の弊衣破帽時代の学生を彷彿とさせる。ウニベルシダリア・ツナというこの近くの大学のツナだ。フローレンシアが「イタロもサンドロもアドルホも大学時代このツナに入っていたのよ」と少し自慢げに言う。息子が三人とも日本に出ていってしまってやはり寂しいに違いない。
フローレンシアが「セサルのお父さんが来ているよ」と教えてくれたので挨拶に行く。セサルはセルソの幼馴染みにして仕事仲間、勿論私達のアミーゴだ。すばらしいミュージシャンで、機会にさえ恵まれていたらとんでもなくビッグになっていてもおかしくはない、と私は思っている。それはともかく、お父さんに「セサルには日頃お世話になっている」と挨拶したら「そうかい、そうかい。これからも仲良くしてやってくれ」と挨拶を返された。ニコニコとしてとても気の良さそうな人、面差しもセサルとよく似ている。
|
(左) ウニベルシダリア・ツナ。
(右) マンドリンを弾くツナのリーダー。ワッペンの数が伝統を物語る。
|
2月 3日(同2日目)
フローレンシアの家には3匹のインカ犬がいる。インカ犬のことは日本でもTVなどでよく紹介されているのでご存じの方も多いだろう。体毛が全くと言っていいほど無いアンデス独特の犬だ。長毛種短毛種というのはよく聞くが無毛種というのは聞いたことが無い。他にもあるのだろうか?。
ここの3匹は夫婦とその息子。旦那がセチューラ、奥さんがカライワ、息子がグスティージョという。夫婦は典型的なインカ犬で全身真っ黒、絞皮の様な肌、ピンとたった耳を持っている。触るとかなり熱い。この熱でアンデスの寒さをしのいでいるだとか、風邪を引いてるわけではない。ところが息子のグスティージョは全身ベージュ色の毛に覆われている。どういう遺伝子のいたずらなのだろう。それともカライワ、お前ひょっとして……。いやいや、よく見るとカライワの片方の耳にはやはりベージュ色の毛が少しだけ生えている。これはやはり劣性の遺伝子がたまたまグスティージョに表出したものなのだろう。そうしておこう。
夜中何かの気配で目が覚めた。懐中電灯をつけると突然壁にデッカイ耳が浮かび上がった。「鹿や!!」と妻が叫ぶ。そんなはずはない、セチューラだ。妻がトイレにたった隙に入り込んだらしい。ドアを開けてやるとおとなしく出ていった。
ここの犬は3匹ともとても人なつっこい。中庭で日向ぼっこをしているとスーッと寄ってきて身体をスリスリとする。かまってやるとすぐにペロペロしてくる。そのくせ誰かが家に入ってくると例え家族でも必ず一度はワンワンと吠え立てる。番犬としては理想的な奴らだ。
朝シャワーを浴びていると中庭から歌声が聞こえてくる。妻とアマンダ、子供たちがサクサイワマンを歌っている。こうしてはいられない。早々にシャワーを切り上げて私も参加する。“リンダ・アンダワイリーナ”“カプリニャーウイ・クスケニータ”“カミニート・デ・ワンカヨ”そのほか名も知らないペルーの古いワイノが次々と飛び出す。皆が自分のキーで勝手に歌うのでムッチャ不協だが、なんだかとても気持ちが良い。不思議なハーモニーになっている。するとエスタニシラオがやって来て「一つ私も歌おう」と言う。エスタニシラオは近頃病気がちで滅多に自室から出てこない、食事も皆とは別にとる。「まぁ珍しい。よっぽど楽しそうに見えたのね」とアマンダがびっくりしていた。「私は息子たちと違ってプロじゃないから上手くはないよ」と言いながらギターを取って歌い始める。“ワスワ・ワスワイ”。古いケチュア語の歌とアマンダが教えてくれる。実に渋い。確かにギターは2コードほどだしあまり音も出ていない、声もかすれたりリズムも若干ふらついたりするがムッチャクチャ味がある。これが本当のフォルクローレだ。と私は思う。そしてペルーにはこんなフォルクローレが実にたくさんある。
|
(上左) インカ犬、セチューラとカライワ。オレンジの服を着ているのがセチューラ。カライワは私に同化している。
(上右) アマンダや子供たちとフォルクローレを歌う。
|
|
(下左) 歌声に私も参加する。
(下右) エスタニシラオが歌う。
|
フォルクローレも音楽である以上音楽の基礎がちゃんと出来ていないといけないと主張する人がいる。リズムがしっかりしていないといけない、音程がふらついてはいけない、特に音がちゃんと出ていないといけないと。それは全く正しい。むしろ当然である。だから全くそのことを否定するものではない。が、しかしそんな当たり前のことを主張する以前にフォルクローレ音楽についてはもっと気にせんとアカンこと、感じなければいけないことがあるような気がする。エスタニシラオの音楽を聞いていると強く、強く、……そんな気がする。
私はフォルクローレ=民俗音楽というものは、地元の普通の人が、(祭りなどハレの場も含めた)日常の場で地元に伝わる歌を歌う、あるいは楽器を演奏する、踊りを踊る、というのがフォルクローレだと思っている。地元から離れてしまって、何がフォルクローレだ。大体、ネオ・フォルクローレなんて、言葉の矛盾じゃないか。新しい民俗って何のことだ。もしそういうものがあるとすれば、地元・地域の中で時代とともに自然に変革されたものを言うのではないか。であれば、それもまた民俗であってわざわざネオと付ける必要など更々ない。
民俗とは改めていうまでもないが、世界中のどこであれ、その地域地域での日常生活と精神生活から生じて、それが伝統となったあらゆることどもを云う。幾ら優れた作品でも芸術家個人から生み出されたものはフォルクローレとは言わない。当たり前だ。
民俗音楽とは日本で言えば例えば地元で生まれて今も歌い継がれている民謡などを言う。一旦伝統が跡絶えればそれは単なる古典であって、これもフォークロアとは言わない。だからこそブルガリアン・フォルクローレだとかアイリッシュ・フォークロアーなどという言い方が成り立つ。
今のように幾ら伝統曲を下敷きにしていても個人の作曲・編曲が大部分を占めるものをフォルクローレと呼んでいて良いものだろうか。例えば日本で民謡を元に作った曲、民謡風のポップスがあったとして、それを民謡と言うことがあるだろうか。
これは言葉の定義の問題で、現在ともかくもこのジャンルの音楽をそう呼ぶのだからとやかく言っても始まらない、と言われればその通りでそれ以上言うことはない。しかし、私の言う意味でもフォルクローレと言う言葉は現在も使われている。ややこしい思いをした人はいないのか。と思う。
誤解の無い様に言っておくが、私は事大主義、正統主義などというものは大嫌いだ。こちらの方が正統に近いとかより伝統的だと云うようなことで価値を判断しているわけではない。
地元の人達、つまり本来のフォルクローレの担い手を除いて、フォルクローレの愛好者、演奏家には二通りのタイプがあるように思う。一つはフォルクローレを素材としてより高い音楽を目指す人達。つまりは音楽家だ。この人達はその高い芸術性、音楽性で聴衆の評価を得ようとする。
もう一つはアンデス世界の民俗に憧れ、その世界に精神的に近づく手段の一つとしてフォルクローレ音楽を演奏する人達。出来るだけ現地の精神に則して音楽をやりたいと思う人達だ。だからこの人達はどの地方のどんな場面でどの様に演奏するかに拘わる。
どちらが良いとか悪いとか優れているとか劣っているとかの問題ではない。単なる個人の問題だ。ただ形態的には似通っていても志向として全く違うものを同じ名前で呼ぶからややこしいのだ。何とかならないものか。と思う。
さて、この日はクスコ名物、花市場を案内してもらう。小さな公園いっぱいに色々な露店が出ている。その名の通り殆どが園芸関係のお店、花屋さん、種苗屋さん、肥料屋さん、他には家具屋の露店が多い。ここで不思議なケーナを買った。穴の大きさ一定、穴の間隔も一定、音程は不揃い。
次に中央市場に行く。牛の頭、裸の鶏がゴロゴロ積み上げてある。ちょっと仰天。フィデルのコネで色々な果物を試食した。
ポストオフィスの看板を見つけたがどう見てもDPE。地図やバッジを売っている。結構高いことを言うのでクスコの地図一葉とペルー国旗型のバッジを一個しか買わなかったが、日本では絶対に手に入らないものだ。あ〜ぁ、もっと色々買っておくのだった。
フィデルの家で昼食、フィデルのパパ、ママと久闊を叙す。フィデルのママのマリアさんはセルソの上のお姉さん、つまりフローレンシアのお姉さん。8年前にも世話になった。フィデルの奥さんと双子チャンにも引き合わされる。双子チャンは一歳半、男の子は“インティ”女の子は“キジャ”と言う。太陽と月だ。インティはクルンクルンの巻毛、キジャはおしゃまさんで二人ともとても可愛い。フィデルの私室へ案内される。電子楽器に大容量のコンピュータ、音楽ソフトも私には良く分からないもののミディはじめ何種類も入っている、すごい装備だ。これで作曲をしているそうだ。
|
(左) フィデルの一家と会食。
(右) フィデルのパパとママ。
|
フロレンシアの家に帰る途中、サンブラス地区のお祭りの行列に出会った。規模は小さいけれども、いかにも手作り地元の催しという感じで見ていて心地よい。仮面を付けたグラマラスなお姉ちゃんたちを先頭に、御輿、バンダが続く。御輿は、誰だか知らないがキリスト教の聖人の御像。なかなか煌びやかだ。喜んで後をついていくと、仮面の姉ちゃんたちにモテてしまった。クスコにずっといたいような気がした。
夜はフィデルの上の弟アミルカルに案内されてウミーニャの演奏するぺーニャに行った。ウミーニャのメンバーはフィデル以外全員入れ代わってしまい、演奏スタイルも大きく変わった。キーボード2台、エレキギター、パーカッションでサルサ、メレンゲ、クンビアなどを演奏する。フィデルが「今日は日本から特別なお客様が来ています」とアナウンスして、ケーナとギターだけでアヤクチョのワイノを一曲演奏してくれた。それで終わりかと思ったら「ではお二人に踊っていただきます」と言って勝手にサルサの演奏を始めた。全員が注目している。前に出ない訳にいかない。超恥ずかしかったが嫌がる妻の手を取って下手糞な踊りを披露した。幸い二人が踊り始めるとすぐに、それまで遠慮していたフランス人観光客の団体がドッとフロアに出てきてくれたので目立たずにすんだ。アミルカルに「下手糞で恥ずかしかった」と言うと「今までの日本人は踊らない。あなた達よく踊った」と慰めてくれた。
|
(左) ウミーニャ。
(右) フィデルのカブトムシ・ワーゲン。こいつにはクスコにいる間中お世話になった。
|
2月 4日(同3日目)
今日は朝からプマウアンカ渓谷のパパ・アミルカルを訪問する予定。パパ・アミルカルはフィデルのパパのパパで一族の長、正式にはドン・アミルカル・サンブラーノと、地域の人々からドンという称号付きで呼ばれている。フィデルの弟のアミルカルはこの人の名を貰っている。8年前クスコを訪問したときもこのプマウアンカにセルソの一族郎党が集まって歓迎会を催してくれた。今回も多分何人かは集まってくれるのだろう。
フィデルが迎えに来てくれたので道に出てみるとなんと大型バスが一台止まっている。中にはいると2,30人も人がいて一斉に「ブエノス・ディアス!!」と挨拶をしてくれる。フィデルの一家は全員揃っているし、エスタニシラオもいる。それに何だかわさわさ子供たちがいる。8年前も5〜10歳位の子供達が大勢いたものだが……えっ、君はフストか。あなたはカルラ?君はティカちゃん!。みんな大きくなっちゃってすっかり見違えてしまった。そしてママ・リビアがいる。思わず抱き合う。
リビアはパドリーノによるセルソの義理のお母さん。セサルの従姉妹でもあり義理の叔母さんでもある。その息子のアレックスやカルロスはセルソの義兄弟ということになるがセサルにとっては従兄弟でもあり従姉妹の子でもある。う〜ん。
関西の古いフォルクローレ・ファンはアレックスとカルロスのことはご存じだろう。8年前ママ・リビアは私達をニューイヤーパーティに招いてくれた。とても楽しい一夜を過ごしたものだった。
|
(左) ピサックの市場。
(右) ほら貝を吹き鳴らす子供。ポンチョが素晴らしい。
|
バスはサクサイワマンを尻目に見て峠を進む。六千メートル級のアンデスが見える。この峠をウルバンバ川目指して降り切ったところがピサック村。今日は日曜で朝市が出ている。彼の有名な“ピサックの市場”だ。バスを止めてしばし散策。面白そうなものがいっぱいあるが今の私に必要なものは特に見あたらない。見物だけでバスに戻る。
バスはウルバンバ川沿いの平坦な道を北に下って行く。凡そ2時間も走ったところで右に曲がって山に入ったあたりがプマウアンカ。パパ・アミルカルの家は渓谷の中の別荘地の様な豪邸だ。目に入る山、谷の全てがアミルカルの所有。8年前に来たときは谷に流れる川の水を利用して鱒の養殖事業をやっていた。
「ヤァーよく来た。久しぶりだ」
「お元気そうで何よりです。日本では体調がすぐれないように聞いていたのですが?」 「それは昔のようにはいかんさ、でもまだまだ元気だ」
「お幾つになられました?」
「ハハハ、忘れた、忘れた。だがまだこうして生きている。年なんて気にしないよ」
今年89か90になるはずだ。
「鱒の養殖は相変わらずですか」
「イヤあれはやめた。さすがに身体が動かんし、雇人は当てにならんしな」
「しかし畑はまだやっとるよ。そうだちょっと見てくれ」
フィデルのパパのヒリアと一緒に付いていくとナランハ、リンゴ、洋梨、苺などを食べさせてくれる。なんか季節がバラバラだ。
「そうだ、風呂に入らんか。この前ソーラーシステムを導入したんだ。これでいちい ち火を焚かんでもいつでも湯が使えるぞ」
相変わらず進取の気は旺盛だ。
「この子を覚えているか」と言って一人の娘さんに引き合わされる。目が大きくてほっそりした可愛らしい娘さんだ。
「前に来たときはまだ10歳だったからな。わしの末っ子でエリザベートじゃ」
「ヒリア、ここに来い」とフィデルのパパを呼ぶ。
「こいつが最初の子供じゃ。エリとは兄妹だが孫と言っても通用するだろう?」
いたずらっぽく笑って言うが、ウンッ89歳で18歳の娘か。いやはやお旺んな事です。
皆で会食。アミルカルが挨拶をする。
「この家には何人も日本人が来たくれた。その度に嬉しい思いがする。この二人は二 度も来たくれた。満足に思うぞ」
と言うような意味らしい。私達も
「皆さんが元気でとても嬉しい。子供たちが大きくなっていてビックリした。それに 新しい子供達が増えていて、また喜ばしい」
などと訳分らんことを喋った。
食後は前庭でコーヒーなど飲みながらファイヤーストーム。すぐに歌がはじまる。懐かしいワイノが次々と披露される。そのうちキジャ・マルガリータが踊り出す。キジャ・マルガリータは4歳、セルソの妹セリアの娘。2歳の頃から完璧なステップで踊ったと言う天才的な踊り手だ。ワイノ、マリネラ、クエッカ、なんでも踊る。私もケーナを吹く。私のケーナに合わせてマルガリータが踊ってくれるがケーナの演奏は不出来だった。 フィデルは「良かったよ」と慰めてくれるがアミリカルは「前来たときとあまり変わっておらんのう」と遠慮の無いことを言う。やけくそでワイノを踊る。妻は踊りを誉められるが私にはだれも誉めてくれない。クソッ。リビアとアミルカルはとても軽やかに踊っている。二人ともまだまだ元気だ。マリアもヒリアもフローレンシアもアマンダも子供たちも踊る。なんだか楽しくなってきた。
|
(左) ドン・アミルカルの畑。
(右) 私のケーナで踊るキジャ・マルガリータ。
|
|
プマワンカに集まってきた人たち(一部)
|
|
(左)ヒリアと踊るポニタ。 (中)マリアと踊るミゲル。 (右)ママ・リビアと踊るドン・アミルカル。
|
ママ・リビアが「火曜の夜は私の家に来て頂戴」と言うので、「火曜日にはアヤクチョへ行きます」と言うとフィデルが「アヤクチョ行きは諦めたんじゃなかったのか」と聞く。実は昨日フィデルと一緒に旅行社ヘ行ってアヤクチョへ往復の飛行機を頼んだのだが昔と違ってクスコからアヤクチョへの直行便は今はないと言う。クスコ→リマ→アヤクチョ、アヤクチョ→リマ→クスコしか飛行機はないとのこと。あまりにも非効率だったのでそれは止めにしたのだが、それではバスで行こうと心に決めたのをフィデルは知らない。
「フィデル、バスで行くつもりなんだ」
「やめろ、やめろ。あの道は絶対危ない」
「そうよ、あの道はとんでもない崖の縁をバスが走るのよ。ポロポロバスが落ちるっ て聞いたわ」
それを聞きつけて皆が口々に言う。
「あの道は駄目、この間も1台落ちたって言うぜ」
「そうだ、そうだ。クスコに居なよ」
「わざわざ危ないところへ行かないで、私の家にも遊びに来て」
そうまで言われて無理押しすることは出来ない。
「わかりました。アヤクチョ行きは中止にします」
ということになった。
フィデルがオリーブの実に似た紫色の木の実を摘んできて食べろと勧めてくれる。仄かな甘味があって爽やかな味がする。「何だか分かるかい」と聞かれるが分からない。すると突然歌いだした、「カプリニャ〜ウィ、クスケーニータ〜〜」。そうかこれがカプリの実か。セルソが昔よく歌っていたのを聞いていて、どんなものかとは思っていたのだがその実物にお目にかかれた。やはり現地には来てみるものだ
プマウアンカを出たときはまだ明るかったのに、フローレンシアの家に着いたときはとっぷりと日が暮れていた。つい、日本語で「お疲れ様でした」と言ってしまうとアマンダが聞きとがめて「何て言ってるの」と妻に聞く。妻は「あなた方は大変疲れた。感謝する」と直訳的なことを言う。すると「と〜んでもない。疲れてなんかいないわよ。楽しかったわ、そんなこと気にしないで明日からももっともっと楽しんでね」と言ってくれる。ニュアンスは全く通じていないのだが、気持ちはありがたい。
私達が帰ってきた物音を聞きつけて、ルシオが迎えに出てきた。家から自動車道までの坂道を飛ぶように駆け上がってくる。凄い速さだ。「彼はまるでチャスキだね。」と言うと、フロレンシアが「あはは、そう、チャスキ。」と言って笑った。
2月 5日(同4日目)
フィデルと弟アミルカルが「あなた方、クイを喰いたいと言っていたから今日はクイを喰いに行こう」と迎えに来てくれる。クスコ郊外を黄色いカブト虫が西にひた走る。このあたりはビルカノータと云うウルバンバ川の河岸台地。あちこちに集落が点在するが、フィデルによると例えば鶏飼い村、陶芸村、パン焼き村の様に専門毎に村を作っているとのこと。インカの時代の職能集団ヤナクーナの名残りのようだ。クイ飼い村は鶏飼い村の先、豚飼い村の手前にあった。
一軒のクイ屋のオープンスペースに陣取ってクイが焼けてくるまで“サポ”をして遊ぶ。サポはピスコ酒を飲ます店には必ず置いてあるという、真鍮の蛙の口目掛けて十二枚の真鍮のコインを投げ入れる遊び。上手く口には入れば満点だが外れてもコインの落ちた位置で点数が決まり合計点を競う。そういえばセルソの店にもあったが使っているのは見たことが無い。最低点の者がピスコを飲み干すのが罰ゲームだそうだがフィデルが運転しているのでそれは止めにした。
クイは確かに美味かったが特別変わった味ということではない。鳥肉に似ている。ただ念願の珍味が味わえて大いに満足した。
|
(左) クイのロースト。
(右) サポで遊ぶ。
|
ウァカルパナイ湖に向かう。湖というより湿原に近い。水牛がドタドタ歩いているし、色々な種類の水鳥が群れている。
手漕ぎの遊覧船に乗る。最大10人乗り位か。船頭さんがオスカルに似ている。オスカルはセルソのすぐ下の弟で日本で活躍中。
何となく不安な気がして私とアミリカルがその辺に落ちていた2メートル位の木切れをオール代わりに持ち込んだ。案の定湖の中ほどは風が強く、船はあらぬ方角に吹き寄せられていく。私とアミリカルが必死で木切れを使い、なんとかもとの船着き場に戻った。船頭さんも疲労困憊。普段はどんな風に仕事をしているのだろう。
クスコへ戻る途中妻も私も車に酔った。少し疲れが溜まったみたいだ。予定ではウミーニャの練習にお邪魔して一緒に遊ぶということだったがキャンセルしてすぐに寝る。夕食も食べず朝までぐっすり寝た。
|
(左) ウァカルパナイ湖。
(右) トトラの茂る湖面を必死で漕ぐアミルカルと船頭さん。
|
2月 6日(同5日目)
今日は色々用事を済まさないといけない。まず頼まれ物のスカートを買いにサン・ペドロの市場に向かう。途中思いがけない人と出会う。フィデルが見つけて車の中から「マリエッ」と叫ぶ。マリエちゃんだ。彼女は私と妻が伴奏の一員を努めるグループで去年まで踊りを踊っていた人。最近見かけないと思っていたらクスコにいたのだ。もうほぼ一年になると言う。スペイン語の学校とガイドの養成学校に通っていて将来は日本人向けのガイドになりたいらしい。若い人は夢があっていい。午前中は暇なので買いものに付き合ってもいいと言ってくれた。
早速スカートの見立てを手伝ってもらう。通訳もつとめてくれて意志疎通が一段と楽になる。ところが“着付け”“中古”などの日本語がなかなか出てこない。若い人は外国語への順応も早いかわりに母国語を忘れるのも早いと言うことだろうか?
次はワンチャック駅近くの日用品市場へ。CDとハサミを買う。ここでもCDは大体5ソーレス、バッタモンならVCDでも1.5〜2.5ソーレスぐらい。
次はプーノへのバスの予約にターミナルヘ行く。日用品市場のすぐ近くだ。数十社のバス会社がひしめき合っている。ところがここは一般用のバスターミナルで私達が乗ろうとしているインカ・エキスプレス社はまったく別のところにあるらしい。インカ・エキスプレスは数社ある英語ガイド付きの観光バスの一つでで35ドルもする。一般用バスなら25〜35ソーレスでプーノまで行ける。なにも観光バスでなくても一般のバスにすればいいようなものだが、たまには他の観光客とも混ざってみたい。それに鉄道ならツーリスモでも45ドル、アンディアン・クラスと云う一等車なら119ドルもすると言う。それに比べれば大した贅沢でも無いだろう。フィデルに電話で予約をしてもらう。
ここでマリエちゃんはタイムアップ。家まで送っていってお別れをする。次は散髪屋へ連れていって貰う。日本を出発する時から頭がワサワサで鬱陶しかったのだ。フィデルの行き付けの散髪屋は二席だけの小さな理髪店。ドナルドダックの子供椅子が何とも可愛らしい。お父ちゃんと息子で切り盛りをしている。私はお父ちゃんに、フィデルは息子の方に頭を刈ってもらう。
ペルーの理容技術は日本のそれと較べて全く遜色の無いものだった。背中を反らせて髪を当たる真剣な眼差しや小柄な体つき仕草が子供の頃通っていた散髪屋の親父にそっくりだ。ところが時々お母ちゃんがお父ちゃんの口に飴玉を放り込む。それをボリボリ噛みながら真剣な表情は変えずに散髪を続ける。少し可笑しい。
アマンダのお宅で昼食を呼ばれる。前にも書いたようにフィデルの家に付属するアパートの一室、と言っても3LDKはあるお洒落な部屋だ。ご主人のホセさんも社交的で気さくな方で色々話しかけてくれる。CDのこと、クスコのお祭りのこと、以前に来た日本人のこと、知っている人もいれば私達の知らない人の話も出る。マリエが日本語を忘れていたと言ったら二人とも爆笑していた。
夜はママ・リビアのお宅を訪問。大勢の子供たちと一緒にアレックスがいる。8年前は鉄道のスチュワーデスや博物館の女性職員等、何処へいってもモテまくっていたものだが、さすがに少し老けたか?それにしても久しぶりに流暢な日本語を聞く。
「お久しぶりです。よく来てくれました。本当に懐かしいですね」
「アレックス、あなた日本のテレビで紹介されていましたよ。名ガイドだって」
「高樹沙耶さんの番組ですね。あの方はとても良い人です。VTRを送ってくれて私 も見ましたよ」
「相変わらず忙しそうですね」
「そう、私もカルロスもとても忙しい。有り難い事だけどね。それにこの頃はツアー もお決まりのコース以外にいろんなオプションを組むからペルー中を飛び回っていま すよ」
「前に来たときよりも子供が増えましたね」
「パレリアが9歳。アンドレスが1歳3ヶ月です。カルロスのところにもフストとカ ルラの下にルシアナが生まれて5歳になります。それにミゲルのところのアンヘラが 大きくなっていたでしょう」
「そう、美人になっていて見違えましたよ」
カルロスの奥さん、エリザベスが到着して皆で食事。エリさん「私太ったでしょう」とさかんに気にする。
「そんなことないよ。全然変わらないよ」
「まぁー有り難う」
昔からそんなものだったよとはとても言えない。
カルロスはマチュピチュから帰れそうもないとのこと。エリさんの携帯のようなトランシーバーのような物で話だけする。
「カルロスさん、お久しぶりです」
「イヤー懐かしいですね、前に来たのは大晦日のパーティーの時でしたね。あの時は とても楽しかった」
「こちらこそ楽しく過ごさせていただきました。ありがとう」
「必ずまた来てください」
「いつになるか分かりませんが、また必ず会いに来ます」
再会を約した。
アレックスが仕事で出ていった後、リビアの弟エクトル・ミランダ氏がやって来た。ダンディでとても愉快な人。二年ほど日本にいたとのこと。
「名古屋にもいたし、九州にもいたよ。中津にいた」
「大分県の中津にですか?」
「いやいや、大阪の中津。セルソと一緒に住んでいたんだ。10年以上前の話だ」
「それは知りませんでした」
「中津に居た頃、警察の剣道場に見学に行った。剣道経験者と思われて道衣防具を着 せられて竹刀を持たされた。構えると結構様になっていたんだろう、相手の日本人は とても慎重に様子を見ている。そして突然メーンと打ち下ろしてきた。こっちは素人 だ、まともにくらって卒倒してしまった。いやー、もう剣道はこりごりだ」
前回とはずいぶん違った雰囲気ではあったが、今回も楽しい一時を過ごさせていただいた。
2月 7日(同6日目)
今日はクスコで初めての自由行動。まずルシオに案内してもらってセサルのご両親のお宅を訪問する。歩いて4,5分のところ、但しあくまで下り道だからで帰りは30分掛かる。
パパ、ママと二人の弟さんが家におられた。セサルのパパは人間国宝級の人形師で博物館からの依頼を受けて文化財の修復を手がけておられる。突然の訪問にもかかわらず作業の手を止めて応対してくださった。販売用の比較的小さな人形も作っておられるが、特に幼子イエスと聖母マリアの像は私達にとっては懐かしい物。
「これ、セサルのお手伝いで私達も日本で売っていますよ。クリスマスの時に」
「いっぱい売って一儲けさせてくれ」
と冗談を言われる。
ここでお願い事をする。私達の友人がそのまた友人のクスコ人の消息を尋ねて欲しいと言っていたので、芸術家やミュージシャンに顔の広いセサル・パパなら何か分かるかも知れないと思ったのだ。早速セサルの弟達があちこちに電話をしてくれた。
すると一応、消息は掴めたのだがその人はいまエクアドルか何処かに旅行中とのこと。まぁ、この件はフィデルにも頼んであるし、ここまでわかれば帰国後でもなんとか連絡はつくだろう。お礼を言ってお別れをした。
|
セサルの家族。左下に制作中の人形が見える。
|
ソル通りをぶらぶらしているとコリカンチャという表示の民芸品センターに行き合った。コリカンチャは黄金の館=太陽神の神殿の意味。それにしてはバラック建て。ここで少しばかりお土産を買う。
日本人がよく集まるという日本食レストランに行く。ところが昼を過ぎても一向に開く気配が無い。ここは諦めてその3軒ほど隣の薬局に入って車酔いの薬と下痢止めをを買う事にした。ところが“車酔い”とか“下痢”なんて言う単語がわからない。やむなくゼスチャーで意志疎通を試みる。かなり恥ずかしい格好だったのだが、白衣のオバちゃん薬剤師は手をたたいて喜んだ。ところが下痢止めを飲むのには水では駄目と言う。何故か“電解質の水”と言うものを買わされた。ナランハ味でなかなか美味しい。以後行く先々でジュース代りに買うことになる。
アルマス広場周辺をブラついているとあちこち土産物屋からフォルクローレが流れてくる。言うところの“普通のフォルクローレ”だ。妻と「せっかくクスコなんだからクスコの音楽を流せばいいのに」などと話すがそれは無理なこと。プキオやコラコラは観光客がいないから地元の音楽が流せたのだ。ここは普通の観光客が多いのだから“クスコでボリビア系の音楽が流れる”のもまたやむを得ないことだ。
帰り道にインカ博物館に寄ってみた。すばらしい展示があったがペルーの博物館については後でまとめて詳述したい。
アルマス広場からフローレンシアの家までは200メートル程の高低差がある。サン・ブラスから先はちょっとした山登りだ。だから私はタクシーで帰ることを主張した。しかし妻は「近いのだから歩いて帰ろう」と言って聞かない。やむなく歩き出したのだが、さすがに3400メートルでの山歩きはこたえる。妻は空身でスタスタと登っていく。こちらは荷物を全部持たされてゼイゼイ息が切れる。途中で分れ道があったが真っ直ぐに行く。しかしどうも風景に見覚えが無い。引き返して別の道を行くと何となく見覚えがあるような気がする。やっと登り切ったと思ったら全然違うところに出た。山の風景は登りと降りでは全く見え方が違う。よく承知していることだったのだが。また引き返して最初の道を行くとさっき戻った地点からわずか10メートル程行ったところがフローレンシアの家だった。完全に疲労困憊。だから「タクシーで帰ろう」と言ったのだ。
|
サンブラス広場。
|
夜は“セントロ・コスコ”へフィデルが連れて行ってくれるという予定だった。セントロ・コスコは正式には“セントロ・コスコ・デ・アルテナティーボ”と言う文化センター。地元の学生やらボランティアやらがクスコ伝統の音楽やら踊りをたっぷり楽しませてくれると言う。また学生の出身県の音楽を演奏してくれることもあるらしい。古い、本来の形のフォルクローレが見られるものと楽しみにしていた。ところが「キャンセルします。今夜はお家パーティです」と言ってきた。どうやらサヨナラパーティーを開いてくれるらしい。“セントロ・コスコ”のフォルクローレも楽しみだったのだがサヨナラパーティーは皆さんのご好意だ。これほど有り難い事はない。
まずは会食。クイの煮込みが出る。そういえば朝クイを潰しているところを見た。自宅で飼っているクイを潰して振舞うというのは余程のことだと聞いている。有り難い。 隣に見たことの無いオバちゃんが座っている。誰かなぁ〜誰かなぁ〜と考えていると突然思い出した。
「セリア!?」
「そう、セリア。やっと思い出したわね」
「いやー、前に来たときの印象ではもっとセルソに似ていると思っていたのでね」
と言うと妻が
「髪も短くなって、前よりもっとセルソに似てきたやん」
「いやだー、あんなのに似ていたく無いわよー」
セリアはセルソの妹。その娘のティカやキジャ・マルガリータとは何度もあっていたのだがセリアは今回は初めて出てきた。学校の先生をしているので忙しかったのだろう。
ヒリアが椅子の上に上がって曲馬団の団長よろしく
「ご来場の紳士淑女の皆さん、ただ今から始まりますのは……」
とやりだす。何事が始まるのかと思うと民俗衣装に着飾ったディアナ、ジョバナ、キジャ・マルガリータ、ファニ、ティカ、アベルが入場、クスコ・ワイラスの踊りが始まった。私達まで身体がムズムズ動きだす。楽しい。バリーチャ、カルナバル、マリネラ、ダンサ・インディアなどを次々と披露してくれる。ダンサ・インディアは純然たるインド・ダンス。今クスコで流行っているとのこと。このダンスにはヒリアの店で働いているマルガリータが加わる。目茶苦茶手足の長い人。それから踊りの名称は分からないが傘を持った女とカメラを持った男の芝居がかったダンスをキジャとアベルが演じる。4歳のキジャがお尻をプリップリッと振ると13歳のアベルが写真を撮るという振りのコミカルな踊り。とても可愛らしい。セリアとアマンダが「もっと傘を高く持って」とか「そこでにっこり笑って」とか本人以上に熱が入っている。皆とても上手、プロのダンサー裸足だ。
踊りが替わる度に衣装を着替える。とても見応えがある。その合間にはフィデルとアミルカルのギターでヒリアやフローレンシアが歌ってくれる。非常に渋い。ギターの前奏があるのに全然違うキーで歌いだす。その度にフィデルが慌ててキーを捜しながら合わせていく。実に良い。私も妻の伴奏で二三曲ケーナを吹いた。
素晴らしいもてなしを受けた。何よりも遠方から来た客をなんとか楽しませようという心根が嬉しかった。人々が帰っていく。「お休みなさい」「今度はいつ来るの」「今夜は楽しかったわ。あなた達のおかげよ」などと言い合いながら。また来ます。いつになるか分からないけど、いつか必ずまた会いに来ます。
|
(左)司会をするフィデルのパパ。 (中)ワイノ。 (右)ワイラス |
|
(左)カルナバル (中)おしゃまなキジャ。 (右)フロレンシアと踊るミゲル
|
2月 8日(同7日目) 別れの朝 そしてプーノへ
フィデルが例のカブト虫でやって来る、こいつともこれでお別れだ。フローレンシアのほかにジョバナ、ファニ、ディアナ、アベル、ルシオが道まで見送ってくれる。アベリート早く大きくなれ。女の子達は放っておいても奇麗になる。ルシオがんばれ。フローレンシア、エスタニシラオ、みんな有り難う。
クスコはプーマの形に擬して作られた。その胴体を形作る三本の大通り、ツルマヨ通り、ソル通り、パルド通りがやがて尻尾の形に収斂するその辺りにインカ・エキスプレス社がある。
続々と観光客が集まってきて出発。殆どが白人。日本人らしい女性が一人いるが旦那さんはアメリカ人、ロスアンゼルスがどうとかこうとか英語でベラベラ喋っている。何となく話しかけにくい。
我々のガイドはマヌエル、スチュワーデスはマリシア、運転手はパンチョという。マリシアはお淑やかそうな乱暴者、車内トイレのドアが開かないと誰かが言うとハイヒールでガツンと蹴ってドアを開けた。
バスはウルバンバ川沿いに南へ進む。フィデルはこの辺りのことをビルカノタと言っていた。聖なる川という意味だ。この辺りは両岸の100メートル位までが河岸台地で、その向こうは山が聳える渓谷を為している。やがてバスが高度を上げるにつれ山がどんどん後退して行って、川を挟む平野部がズイーッと広がっていく。これがアルティプラーノだ。モンターニャと併せてシエラと言ってもいい。特にラヤ峠を越えてからはアンデスは遙彼方に後退して一部には地平線さえ見える。見渡す限りの大平原だ。何故か親父の時代の映画、ゲーリー・クーパー主演の「平原児」を思い出した。
バスの最初の停車地はアンダウァイリーヤス。古い教会を見学した。古色蒼然とした味わいは奈良の新薬師寺に通じるものがある。尤もこちらの方が較べものにならないくらい新しいのだが…。
次はラクチの遺跡。巨大な壁と円筒形の石組が残っている。巨大な壁は神殿。円筒形の石組はそれに付随する住居跡らしい。藁の屋根を葺いて住居を復元してあるところもある。以前見たシュスタニ遺跡とやや似ているが、あちらはチュルパと云う墳墓でこちらは住居。高さはシュスタニの方がずっと高いが広さはこちらの方が広い。ここでシカゴの空港で知り合いになった日本の女の子に再会する。彼女は別のバス、ファーストクラスという名前の会社のバスに乗っている。コースはほぼ同じなのだがバスが奇麗で座席がゆったりしていてだいぶ値段が高そうだ。日本の若い女の子はどうしてこんなにお金持ちなのだろう?
シクアニという町で昼食をとる。掃除の行き届いた清潔なレストランだ。地元のオバちゃんがアルパカ製品を売っている。オバちゃんが私に目を付けて毛皮の帽子をしつこく勧めてくる。何故か私はこういうときに目を付けられやすい。こんなもの買って帰っても日本で被れるはずが無い。
「いらない、いらない。絶対にいらない」
「見て、こんなにクシャクシャに丸めても皺にならない、ベビーアルパカの上物よ」
「日本では誰もこんな物は被らないんだよ、特に男は」
「じゃ、奥さんにかってあげて。40ドルだけど30ドルに負けとくわ」
「妻もいらないと言っている」
「20ドルにするわ」
「いらない」
「15ドル」
「いらないって」
「10ドル」
「買った」
安いと思うといらないものでも買ってしまう。貧乏根性丸出しだ。目を付けられる訳が分かった。
一台のトリシクロがやって来る。車体に“TOYOTA”のロゴ。トヨタはいつからトリシクロまで作るようになったのか。シクアニはおもしろい町だ。
|
(左)アンダワイリーヤスの教会。(中)ラクチ遺跡にて。(右)ガイドのマヌエル。
|
|
シクアニで見かけたTOYOTAのトリシクロ。
|
バスはラヤ峠に停まる。4335メートル。これより少し手前で今まで付かず離れず車窓にあったウルバンバ川が見えなくなる。ウルバンバ川はここより少し西方にあるランギ湖に一旦入った後、更にアンデスを遡って氷雪に消える。近年アマゾン川の最長源流はアプリマック川の上流ミスミ山と同定されたようだが、私はウルバンバ川の上流もそれに劣らないと信じている。何しろ私にとってはアプリマックよりウルバンバのほうが馴染み深いのだから。
ラヤ峠には名物になっている露店がある。総牛骨ケーナがあったので「高地のヤラビ」かなんかを吹いてみるとなかなか音程がしっかりしている。改めて造りを見ると結構丁寧に作ってある。しかしケーナは何十本と持っているのでもうこれ以上はいらない。元に戻してバスに戻ろうとするとまた目を付けられた。先程と同じようなやりとりがあって50ドルのものを20ドルにすると言う。「そんなに負けて大丈夫なの?」と聞くと「君は音楽を愛する人だから特別だ」などとうまいことを言う。今回のペルーではいらないものはどんどん負けてくれたが、欲しいと思うものは一向に負けてくれなかった。その辺は分かるものらしい。
ラヤの分水嶺を越えると新しい川が始まる。プカラ川だ。プカラ川は途中でラミス川と名前を変えてやがてチチカカにそそぐ。そう、“あの”ラミス川だ。関西のフォルクローレファンには懐かしい。プーノ地方の伝承曲「ラミス川」をプカソンコの演奏で聞いた人は多いだろう。そしてラヤのこの辺りからアイマラの文化圏に入る。文化圏としてボリビアと同一文化圏となる。衣装風俗もクスコ地方とはハッキリ異なってくる。女性はつばの狭いキノコ型の山高帽子にクスコに比べれば生地の薄い軽やかなスカート、回るとフワーッと広がる、それにリヒリャという大きなショールで肩を包んでいる。
何だか道を行く人の顔も違って見える。いや、本当にクスコなどに比べれば丸顔の人が多いと思った。
最後の停車地プカラで博物館の見学をする。プカラはプレインカの時代から巨石文明の発達したところとのこと。ユーモラスな神像、精緻な文様の壺など見応えはある。マヌエルがインカの社会構造を図解で説明してくれるがよく聞き取れない。ピラミッド形の図から察するにインカとは皇帝その人、その下にパナカと言う皇族・直系親族があって更にアポナークと云う貴族がいて、それからトクリクックと云う官僚団がいたがいずれもケチュア族であって、インカ族と云う民族がいたわけではないと云うことらしかった。しかしそれらを引っ括めて他集団からはインカと呼ばれていたらしい。三角形の図面1枚でここまで分かってしまう私もなかなかのものだ。
さてこの後はプーノへ直行する。教会にタワンティン・スーユの旗が翻っている。非常に格好良い。プーノに着いたら手に入らないか捜してみよう。
|
(左) ラヤ峠のケーナ売り。
(右) プカラの町に翻るペルー国旗とタワンティンスーユ旗。
|
|