【ペルーの日本人観光客考】 ペルーで日本人に出会うと直ぐにそれと分かる。特に若い女性はかなり遠くからでも識別できる。例えばフリアカの空港で到着便からワラワラと人が降りてくるのだが、中に3人明らかに日本人と分かる娘さんがいる。顔など辛うじて東洋系かと判別できる位の距離なのだがあれは絶対日本人だ。近くを通るときやはり日本語で喋っていた。 これもフリアカの空港でのこと。3〜40人の東洋系の団体客が来た。年配者ばかりなのでいつもの日本人ツアー客かと思ったが、何処となく様子が違って日本人ではないと分かる。近づいてくると韓国の人達だった。同じ東洋人なのに何処が違うのか。答えは“歩き方”である。韓国の女性は腰が据わっている。この韓国の人達、出発ロビーで仲間同士雑談をしていたが何処かで商品棚でも倒れたのであろう、突然バーンという大きな音がした。すると一斉に腰を落としてキッと身構えたのである。まるで全員が武術の心得があるか軍事調練の経験でもあるかの様であった。日本人はと見ると「え〜何かあったの〜」とゆっくり振り向いて「何でもないのね〜」と元に戻す。随分オットリしている。 リマッ娘と比べると歩き方の違いは一層歴然としている。こちらの若い娘さんは大柄な人が多い。その体格で大股でへそを出して堂々と闊歩する。それに比べると日本の娘さんはみんな随分と華奢だ。そしてどこかシャナリシャナリと歩く。勿論それが悪いと言っているのではない。こういう歩き方で着物を着せたらそれは美しいことであろう。 逆にリマッ娘に着物を着せてあの大股でガバッガバッと歩かれたらさぞ興醒めなことだろう。 プーノでマリエとその友達に出会ったとき、私としては全く無意識だったのだが帽子を取って深々とお辞儀をしたらしい。後でその子が感動してもう一度私に会いたいと言ってくれたそうだ。タキーレから戻ってアランにお別れの挨拶をしたときも思わず深々とお辞儀をしてしまった。アランは慌てて手を合わせて拝んでくれた。こちらの感謝の気持ちは十分伝わったはずだ。 思うに私たち日本人は外国に出るときにあまりにグローバルス・タンダードとか云うものに捕われ過ぎていないだろうか。郷に入れば郷に従え式にその土地の習慣に従わざるを得ない状況は放っておいても多々出てくる。せめてアピールできるところは日本人であることをアピールした方が良い。そのほうがかえって好感を持たれる様に思う。 日本の娘さんはもっと着物を着てはどうだろう。最近は気軽に着られる化学繊維の安価な物もたくさんある。但し、浴衣はいけない。あれは元々寝間着に近いくつろぎ着であって外出着ではない、遠出すべきものではない。着物は動きにくいと思われるかも知れないが昔の女性はあれで家事全般から仕事までこなし、いざと言うときは薙刀まで振るったのだ。それでも動きにくければ裾短に着ればいいし、袴を着ければいい。何も女性の袴は卒業式に限ったことではなかろう。 お辞儀もやたらペコペコするからいけないのであって、いったん姿勢を正し、深く腰を折ってすれば外国人にも礼であることが理解される。女性も前で手を組んだり腰を屈めたりせず、神社で礼拝をするように手は両脇に正して背筋を伸ばしてお辞儀をすれば形が決まる。みんなで日本の美しさをアピールしたいものだ。グローバルスタンダードを気にしないといけないところはもっと他にある。 プーノでリュックサックを前で抱えて歩いている日本人女性を見かけたがあれはいけない。あれでポケットに手を入れゾロリゾロリと歩かれたらまるで花魁道中だ。ガイドブックにもリュックを前にすればスリにあいにくいと書いてあるし、ペルー人ガイドもそれを勧めるがかえって目立ってしまう。現地の人も他の外国人観光客もそんな格好をしている人は一人もいない。狙ってくれと言っているようなものだ。 【ペルーの買い物事情】 前回も今回もペルーで自炊自活する様なことは無かったので買い物と言っても高が知れている。観光客として土産物を買い、食堂で喰い、タクシーに乗って宿代を払っただけだ。それでも何がしか分かったような気がするのでここに書いてみる。 まずペルーには明確に観光客用料金と一般料金の区別が存在する。ボルとか吹っかけるというのとはまた別の問題だ。また単に土産物は高いという一般論ともちょっと違う。 土産物用の品物が一般の物に比べて相当高いと言うのは日本でも日常的に経験することだ。例えば扇子・扇、唐傘(何故か最近では和傘と言うらしいが雨降りお月さんも和傘を差されたのでは興ざめだろう)、黄楊の櫛など、こんなチャッチイのがなんでこんな値段やねんと言うほど高い。しかしまぁ言っても仕方がない。世界中土産物は高いというのが現実だ。 しかしペルーでは同じ品物が観光客と地元民とではまったく別の料金で売られている。CD然り楽器然りレストラン然りだ。編物、織物も準じた様な扱いだ。CDは先に書いたように10倍以上、楽器は例えばリマの楽器店でボンボは50〜80ソーレスで買えるが土産物屋で50ドル100ドルの札が付いていた。観光レストランは一般のレストランに比べて2〜3倍の料金になる。ポンチョとか帽子は基本的に自給自足するものだろうが、フィデルにつれていってもらった市場で民俗衣装を買ったときはやはり土産物屋にブラ下がっていたものより半額位で買えたように思う。 このような観光客値段の付いているものは観光客専用の店で売られていて、普通の店というのはちょっと一般の観光客には入って行き難いところにある。そして観光客用の店は決して値引きをしない。負けてもせいぜい100を95ソーレスにするという程度だ。だから観光客は高いものを買わざるを得ない。 日本でCDを外国人には2万円で売るなんてことがあるだろうか。そろそろこんなことは終わりにしてもらいたいのだが、しかしその時はペルーの物価自体が日本やアメリカと同じようなレベルになると言うことだろうからどちらにせよ有り難くない。 それに反して値切り様によってはどんどん負けてくれる店もある。遺跡の前とか観光地に出している屋台店であることが多い。毛皮の帽子40ドルを10ドルに、牛骨ケーナ50ドルを20ドルに負けてくれた話は先に書いた。それだけ下駄を履かせてあると言うことだろう。尤もこういうところでも必死に値切っても上手くいかないこともある。私の場合は切実に欲しい物ではなかったので売子が勝手に値を下げていっただけだ。 日用品はコラコラで石鹸、クスコでハサミと使い捨てライター、プーノでロールペーパーを買ったがこういう物は値切るも値切らないも無い。もともと地元料金でとても安い。クスコで買ったハサミは今のところ我が家で一番よく切れるハサミになっている。 勿論売っているところは観光客などいない普通の市場や商店街だ。 【観光立国】 最近「ペルーはすっかり観光化してしまった」と嘆く人がいるがこれは仕方がない。多くの観光客はマチュピチュ、クスコなどを短期日で廻る。それであれこれ言うのは日本へ来た外国人が嵐山、金閣寺だけを見て日本はすっかり観光化していると言うのと変わらない。観光地が観光化されているのは当たり前の話で、古い歴史的遺産を持つ国がそれを観光資源として活用するのは世界中何処でも同じだ。しかし観光地を一歩はずれるとそこには生のペルーが顔を覗かせる。観光化された地域などほんの一握り過ぎない。 とは言えこの心配はよく分かる。観光“開発”というものは必ずと言ってよいほど過剰開発から観光資源そのものを崩壊させる矛盾を孕んでいる。よほど気をつけないといけない。良い例が私の住む町にある“哲学の道”と言う観光名所である。この道は子供の頃から普通に通りかかる道だったし、高校生の頃は私のアルバイトの配達エリアでもあった。 そのように馴染んだ道ではあったが、ここが西田幾太郎が思索に耽った場所だと教えられると直ぐにさもありなんと思える佇まいがあった。何気ない民家の塀、土手に生えた苔、川面に掛かる柳の枝にその下に蹲って一心に思索に耽る西田翁の姿を彷彿とさせるのがあった。それが何年か前に観光“開発”の名目で整備が行なわれた。それはもう見るも無惨な破壊だった。もはや西田翁を偲ぶ何ほどのよすがもない。小洒落たようなお土産ショップにちゃらちゃらした喫茶店。若い人のデートスポットにはなるかも知れないが、誰がこんなところを何度も何度も訪れるか。可惜京都の文化史的記念碑を安っぽい田舎の遊歩道見たいなものに変えやがって、京都市は何を考えているんだ。とまぁ腹も立つわけだが、ことほど左様に観光資源の維持は難しい。 かと云って頑なに現状を維持しても、また何か作為的なもの不自然なものが感じられて面白くない。一番良いのはその土地の人にはごく普通の生活、普通の行事が他の土地の人には珍しく面白く触れる価値のあるものであることだろう。しかし、世界中が均質化に向かう現代社会の中ではこれもまた大変難しいことだ。 その意味でペルーが観光立国を国是の一つとすることは大変立派なことだと私は思う。観光事業を成り立たせるためには何より平和であること、治安の維持が重要だからだ。尤も動乱の地であっても行ったり見たりする自由は保障されたいものだ。自由を保障すると言うことはお互いが全力で支援すると言うことだ。自己責任一辺倒は自由を疎外する。 次いで観光資源の保護と育成が必要だが、その為には安易に生活を変革することは出来ない。時間の経過とともに社会が変容するのは不可避だが、これを非選択的に受容することは場合によってはそれまでに培った独自の文化や自然を破壊することに繋がる。人が利便性を追求する当然だが、観光資源を守るためには新しいものを取り入れる際は相当の吟味が必要となる。 それでも観光事業に力点を置くのは平和への希求と自分たちの歴史、文化、生活への自信、つまりは民族の誇りというものだ。簡単に儲かるからだとか、それしか売り物が無いのだなどと意地の悪い見方をするべきではない。 ただ、チチカカに浮かぶ巨大トトラ船はいかがなものであろうか。伝統に拘わらずに新しい文化を創造することは確かに必要だ。日本でも最近はメイドカフェを見るために外国人観光客が殺到していると言う。しかしあんなものはただの仇花だ、方向性を誤ってはならない。 【ペルーの生活】 8年前にペルーを訪れたときは大変良い国だとは思ったものの、とても永住する気にはならなかった。生活をするには何かにつけて不便そうな感じがしたからである。その最たるものはトイレ。町の公衆トイレでは水の流れが悪く、汚物が残ったりしていた。 この8年間でペルーのインフラは急速に進んだように私は思う。町の風景はなんら変わらないものの家の中に入ると電気、ガス、水道と基本のインフラは全て整備されている。勿論田舎や高地の集落では事情は全く違うのだろうがコラコラクラスのプエブロではほとんど日本と変わらない生活が営めると私は思う。 ビキさんのお家やフローレンシアの家には電子レンジやオーブントースターまであった。何といっても変わったのはトイレ。ほとんどのトイレに便座が付いて用が足しやすくなった。8年前は便座の無いところが多く、結構苦労をしたものだった。水流も強くなって汚物が残るなどいうこともない。公衆トイレは50センチモスから1ソルの使用料を取るので概ね清潔に保たれている。まぁたまに管理者の居ない公園のトイレなどでは昔の通りというところもある。ただ今だに紙はトイレに流せない。全て汚物入れに捨てる。紙質の問題なのかパイプ設備の問題なのか。これがなんとか成ればほぼ日本に居るのと同じ感覚で暮らせるようになると思う。 尾籠な話はこれ位にして、ペルーでも携帯電話は若者を中心に急速に普及している。もともと公衆電話はあまりなくて、家に電話のない人は町の郵便局や電電公社(懐かしいなぁ)のような所へ行って電話を掛けていたそうなのでかえって携帯の普及も早いのだろう。 パソコンはフィデルのように自宅に備えて十分に活用している人もあるが、ネットカフェが町のあちこちにあって、多くの人はそれを利用するというレベルだ。但し私達が滞在していたクスコのビジャ・サンブラスという地区はネットカフェもあるにはあるが近所の人の需要を一通り満たすといったもので、日本語には対応していなかった。 先にも述べたかと思うがペルーではテレビやオーディオ、調理用品というものは相当電化が進んでいるのに、掃除機と洗濯機はついぞ見かけなかった。ロス・ピノス・インではガイドブックにランドリーありと書かれていたので、コインランドリーで洗濯が出来ると捜したら屋上に手洗いの洗濯場があった。クスコでもジョバナが懐かしい洗濯板と石鹸で私達の洗い物をしてくれた。ペルーの人は意識が高くて洗剤で環境を汚すことを喜ばない、のだとは思わないが、日本に比べて時間のゆっくり流れる国だ。掃除洗濯ぐらい手でやればいいという感覚なのだろう。 【ペルーで食べた物】 ★チキンの照り焼き(リマ) ★パパ・ア・ラ・ワンカイナ=茹で芋にピーナッツとチーズのソース掛け(あちこち) ★フーゴ・デ・グアバ=グアバジュース(あちこち) ★アロス・コン・レチェ=ご飯を甘い牛乳で煮たデザート(リマ) ★トレハ・デ・ウェボ=各種香草とチーズを入れた卵のベタ焼き(クスコ) ★カフェ・コン・レチェ=カフェオレ(あちこち) ★ロモ・サルタード=牛肉とフライドポテト、トマトの合わせ炒め(プキオ) ★マテ・デ・コカ=コカ茶(あちこち) ★ポヨ・ア・ラ・ブラサ=チキンの炭火焼き(プキオ、クスコ) ★アンティクーチョ=肉の串焼き(プキオ、プーノ) ★フーゴ・デ・ピーニャ=パインジュース(ナスカ、クスコ) ★ウエーボス・フリートス=目玉焼き(あちこち) ★チャウファ=炒飯(プキオ、プーノ) ★穴あきスコーン(コラコラ) ★インカコーラ(リマ) ★アロス・コン・ポヨ=鶏ご飯緑色(リマ、クスコ) ★チチャ・モラーダ=紫トウモロコシのジュース(リマ) ★フーゴ・デ・パパイヤ・カロル=温かいパパイヤジュース(クスコ) ★チョコラテ=飲むチョコレート(クスコ) ★パン・デ・ケソ=チーズパン(クスコ) ★ピスコ・サワー=ピスコ酒のサワー(クスコ) ★フーゴ・デ・ナランハ=オレンジジュース(ナスカ) ★エストファド・デ・ポヨ=炒めた鶏肉のトマトソース煮込み。フギート(汁)旨し。 ★チョリソス=バーベキュー・ソーセージ(プマウワンカ) ★骨付きステーキ(プマウワンカ) ★白トウモロコシ(プマウワンカ)、 ★焼きバナナ(クスコ) ★クイの照り焼き(クスコ) ★ピスコ=日本で手に入るものよりかなり強い。(クスコ) ★オコパ=パパ・ア・ラ・ワンカイナに似ている。(クスコ) ★アドボ=肉野菜スープ、朝しか食べない。これが出るとジュースは出ない。(クスコ) ★カフェ・デ・セバダ=優しいコーヒー、少し薄め甘めのコーヒー ★ソパ・デ・モライア=チューニョ入りスープ(クスコ) ★アパナド・デ・カルネ=肉玉葱トマトの合わせ炒め(クスコ) ★ロコト・レジェーノ=ピーマンの肉詰め、(クスコ) ★アヒ・デ・カジェーナ=トウモロコシ入りピラフ、チーズソース掛け(クスコ) ★パステル・デ・アセルガ=肉野菜卵をパイ生地で挟みオーブンで焼いたもの(クスコ) ★ピピアン・デ・クイ=クイのオーブン焼きの煮込み(クスコ) ★カプリ・イ・セレッソ=カプリの実とサクランボ(クスコ) ★ソパ・デ・ペスカド=魚の煮込み(プーノ) ★フリート・デ・トルーチャ=鱒の唐揚げ(プーノ) ★ソパ・ミヌータ=肉とマカロニのスープ(プーノ) ★ペヘレイ・アル・バポール=白身魚の蒸しもの(プーノ) ★豚の素揚げ、パパ、トウモロコシ付き(プーノ) ★アニサード=アニス酒キジャバンバ産(クスコ) ★ピケオ=肉の細切れ玉葱の細切りを炒めたもの(クスコ) ★ラザニア(リマ) ★天婦羅うどんYそーき蕎麦(リマ) ★オンペサ=パン(クスコ) ★チューロス=棒状の揚げドーナツ(プーノ) ★屋台のパイ菓子。生クリーム、チーズクリーム、ジャム入り(コラコラ、プーノ) あぁ〜、美味しかったぁ〜。 ≪名も聞かなかったペルーの人々≫ ペルーの人達は概して正直で親切で人懐っこい。先にも書いたようにタクシードライバー達は観光客と見て吹っかけると言うことはほぼ無かったし、プーノのコピー屋は僅か10センチモスでも払いすぎた分はきっちり返してくれた。 リマのミラ・フローレンスから空港近くのビキさん宅までタクシーに乗ったが値段を聞くと20ソーレスと言う。その時は私達にまだ土地勘が無くて何となく高いような気がして15ソーレスに値切ったら「空港に行くのと変わらないじゃないか」と文句を言いながらもOKしてくれた。後で調べると20ソーレスはごく妥当な値段。気の毒なことをした。この運転手、ビキさん宅の近くまでは直ぐに辿り着いたものの、私達がきっちりした位置を覚えていないので、あちらの角こちらの辻と行ったり来たりし色々人に尋ねて家の前まで送り届けてくれた。 ナスカ行きのバスの車掌も「おーい日本人、ここが降りるところだぞ」と本気の心配顔をして、降りる人達を掻き分けて私達の所へ知らせに来てくれた。チップも渡さなかったのに。 プーノのパン屋のオバちゃんは私達がなかなか声を掛けられずにいるのをみ見てほかの客をおいて注文をとりに来てくれた。パン5個で1ソルと10センチモス。この10センチモスという半端に彼女の正直さが現れているような気がした。 コラコラに着いたとき一緒にホテルを探してくれた少年は本当に途方に暮れていた。この町に実家があると云うものの何年か前に移ってきてそれほどこの土地に詳しく無かったのだ。それでもあっちに聞きこっちに聞きして、私達がもういいと云うまでつきあってくれた。 イカで強い西日を浴びながらバスの修理を待っていたときも何故か乗り合わせた乗客達が私達を気遣ってくれた。言葉を交わさないままみかんの一房を差し出すオッちゃんがいたし、水道の順番を譲ってくれる人がいた。子供達はみんなはにかみながらも私達を見てニコニコ笑った。 プキオのホテルの少年は結果は上手く行かなかったがランペルーの予約確認の為に慣れない音声ガイダンスに何度もトライしてくれた。コラコラのホテルのおじいちゃんはそれじゃダメだと言ってちゃんと係を呼び出して私達の搭乗確認を入れてくれた。 プーノの食堂では店の人と常連客のオッちゃんが一緒になって私達の通じないスペイン語を必死に聞き取ってくれた。 アマンタニ島で雨に降られてずぶ濡れになったとき、ようようの思いで中腹の休憩小屋に辿り着いた。無性に煙草が吸いたくなって一箱買ったのだがライターを置き忘れてきた。「フエゴ、フエゴ」と言うと、カウンターのおばちゃんが売り物の新品のマッチの封を切って一箱出してくれた。「じゃあそれも買うよ」と言うと、「ノープロブレマ」と言ってマッチを擦って火を点けてくれた。 勿論私達を観光客と見て吹っかけてくる人もいる。ミラ・フローレンスのホテルから日秘会館へ行こうとしてタクシーを拾ったのだが、比較的近い距離だのに8ソーレスと言う。どう考えても5ソーレスも出せば十分なはずだ。そのことを言うと「何言ってんだ。8ドルじゃない、ソーレスだぜ。あんな高いホテルに泊まっている人がケチケチ言いなさんな」と言う。ただその言い方が陽気で愛嬌があって憎めない。パスしないで乗ることにした。乗ってる間中陽気に喋り捲っていたが、降りた後わざわざ戻ってきて「おいタイヤを見てみろ」と言う。確かに空気がだいぶ減っている。「パンクしちまった。あんたを乗せたせいだ」「俺が太ってるってことか。ハハハハハ……うるせいやい!!」。一際陽気な笑いを残して去っていった。 そういえばこんなこともあった。コラコラでリマ行きのバスに一旦乗り込んだ後、妻が一人で水を買いに出た。屋台のオバちゃんに水1本頼むと1ソルと30センチモスと言う。水は1ソルが普通だ。現に昨日つい先の屋台で同じものを1ソルで買った。そのことを言うと知り合いと思しきオバちゃんまでが寄ってきて「これは1.3よ」と助け船を出す。悔しいが時間が無いのでそのまま買ってきたと言う。しかし一緒に買ったパイ菓子は1個20センチモス。これは相場通りだ。吹っかけるならこっちを吹っかけるべきだろう。いずれにせよたった30センチモス、ボリ方が可愛い。 言うまでもなく、クスコではセルソの一族とセサルの親戚に、リマ、プキオではビキさんのご家族とその親戚に言うに言われぬほどのお世話になった。しかし、その他にもこんな人達に支えられて私達は一ヶ月弱に渡りペルーを旅することが出来た。 追記; 私達がペルーから帰って1ヶ月と少したった4月2日、エスタニシラオの訃報が入った。病弱とは言えプマウアンカへの長旅にも一緒に来てくれたし、ギターを弾きながら歌う姿も堂々としていて、まさかこんなに早く亡くなるとは思いもよらなかった。せめてもう一度、彼の歌を聞きたかったのに。まぁまた天国で一緒になれば聞かせてもらえるだろう。はるか南溟に向かって彼の冥界での幸福を祈りつつ筆を置く。 合掌 | ||
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