ミゲルのペルー再訪記

第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ

第一章 目的・道程

第二章 空港・飛行機

第三章 リマの風景・ビキさん一家

第四章 ナスカ、プキオ、そしてコラコラ

第五章 ペルーの交通事情

第六章 クスコ、慕わしい町

第七章 ペルーの博物館

第八章 プーノ、 ビルヘン・デ・ラ・カンデラリア

第九章 チチカカに浮かぶ島々

第十章 ゴーバック・トゥ・マイホーム

第十一章 ペルー雑感

1月28日
 ナスカへはバスで向かう。リマからは海岸沿いにひたすら南下する。その道が所謂パンアメリカン・ハイウェイだ。

 ビキさんがバス停まで案内してくれた。セントロにある色々な会社が集まった大規模なバスターミナル。ビキさんは、ペルーでは最大手で最も歴史のあるオルメーニョという会社のバスが良いと言う。
 発券所ヘ行くと今まさにナスカ行きのバスが出るところだから、チケットはバスの中で買いなさいとのこと。50メートル位の道のりを必死に走って、もう動き出しているバスに飛び乗った。ほぼ満席の状態だったが最後部に空いている席を見つけてとりあえず落ち着く。中々座り心地が良い。ただ蠅が5,6匹ブンブン飛び回っているし、前に座っている客が「ここへおいで」と、友達を呼ぶのに座席をポンポン叩くと、モワッと埃が舞い上がる。掃除はまったく行き届いていない。

 その時になって気がついたのだがガイドブックで確認していたバス乗場はセントロではなくサン・イシドロ地区にあったはず。どうやら同じナスカ行きでも普通のバスと観光客用のバスとでは乗場が違うらしい。勿論このバスに乗れてラッキー。現地の人と一緒に旅ができて本当に嬉しい。

 バスは1〜2時間ごとに止まって人の乗り降りがある。本当の路線バスだ。リマからはすぐ隣の席に高校生らしい男女5人のグループが乗っていて、ぺチャクチャお喋りをしたり歌をうたったりして見ていて中々楽しかったのだが、最初のバス停で降りてしまった。リマのずっと南には海水浴場が点在していて、海の家の様なものも見える。どうやらこの子達は海に遊びに来たようだった。

 バス停には何の標もない。道の端に寄ったかなと思うと人が降りたり乗り込んだりする。アナウンスも何もない。今が何処で次のがどこなのかも判らない。ナスカに着いても分からずに行き過ぎてしまう可能性がある。不安に思っていたとき男性の車掌さんがやってきて「あんた達、何処から来たの」などと話しかけて来る。これ幸いと「ナスカに着いたら教えてください」と言うと「OK,OK」と実に気さくだ。しかし、町の入り口にその町の名前が大書してあるところもあって、少しは見当がつく。チカ、チンチャ・アルタ、ピスコ、イカ、どこかで聞いた名前が通り過ぎる。

 バス停かトイレ停車かは慣れないと分かりにくい。大体野っ原に止まるとそういうこと。他の人の様子を見ていて確信を持ってから降りたのでは出遅れてしまってプップーとクラクションを鳴らして急かされてしまう。女の人は岩陰か、無ければスカートの中で行なうと聞いていたがここではそういうものは見なかった。

 イカで大休止。そのあと南へ向かうものと思ったら来た道を戻る。おかしいなと思っているとバスは修理工場へ。オイル漏れをおこしたようだ。道理でブスブスとおかしなエンジン音がすると思った。バスの中は元々クーラーの効きが悪くて暑かったのだが、それが止まってしまって耐え難い暑さ。皆外へ出て涼む。しかし海岸地方は外も暑い。道は本線の外に側道があって、その分離帯に芝生が植えてあって、たまたま水やりの水道が近くにあって、蛇口にホースがつけてあって、皆頭からじゃぶじゃぶと水をかぶる。折から陽が傾いて顔が焼ける。タオルを濡らして土方被りに頭にかぶるとホン涼しい。
 しかしこの被りものはペルーの人には異様に見えるらしく、道行く人がジロジロ見ていく。同じバスの乗客は私が日本人と分かっているのであんなものだろうとでも思っているのか、あまり気にしない。オジチャンやオバチャンが
 「あんた達何処まで行くの」と話しかけてくれる。
 「ナスカで泊まって、明日はプキオからコラコラヘ行く」と言うと、
 「なんでそんな田舎に行くの」「田舎が好きなのか」と聞くので
 「フォルクローレが好きなんだ。ペルーの田舎の音楽は良いね」というと
 「そう、田舎には良い音楽があるわよ」
 「この時季はお祭りをやっているかも知れない。楽しめたらいいね」などと言ってくれる。
 子供たちはそんな私達が理解できないという様な風情で、実に不思議そうな顔をして大人達の横から私達をのぞき込んでいた。修理に要した時間はタップリ一時間。この思わぬ休憩のおかげで他の乗客達と大分仲良くなれた。

(左)
 ナスカに行く途中にある町の風景。チンチャアルタだったか、ピスコだったか?


(右)
 オイル漏れで大休止中のバス。

 ナスカについたのはとっぷり日が暮れた頃。先程の車掌さんが「おーい日本人、ナスカだよ、ナスカだよ」と教えに来てくれた。リマを出て450キロ。10時間を経過していた。結構くたびれていてぐったりとバス停のベンチに腰掛けた。さすがにナスカにはちゃんとした発着場がある。

 そうこうしていると何やら怪しげな兄ちゃんが寄ってきて
 「安くて良いホテルがあるよ。たった30ソーレス。案内するよ」と言う。
突然で躊躇しているとかまわず荷物を持ってどんどん歩き出す。ええ〜いままよ。どうせ西も東も分からない。余程インチキなホテルに案内されたらもう一度道に飛び出して改めてタクシーでも拾えばいい。覚悟を決めてついて行くと若い運転手の乗った自動車に乗せられた。二人掛かりで町外れにでも連れて行かれたらチョットやばいなと思っているとバス停からそう遠くない町中のホテルに案内された。結構ちゃんとしたホテル。後で分かったことだが日本のガイドブックにも載っている二つ星ホテル。エストレージャス・デル・スル(南の星達)はどこかで馴染んだ名前だ。

 約束の30ソーレスの部屋を見せてもらうと、清潔でトイレの水も良く流れるし熱いシャワーも出て設備はちゃんとしている。ただ風通しが悪そうだったので
 「エアコンは無いのか」と言うと
 「50ソーレス出すとベンチレーターのついている部屋がある」と言う。
 そこを見せてもらうと道路に面した広い部屋で、立派なバルコニーがついている。壁の窓も大きい。窓とバルコニーの扉を開けると涼しい風がいっぱいに吹き込む。ベンチレーターとはエアコンではなくてこのことだったのだ。しかし全然不満はない。私としては涼しければそれでOKだ。それに1ソルはレート約40円、二人で800円の贅沢だ。その程度は許されるだろう。

 食堂でビールを飲んでいると、ここへ案内してくれた二人がやってきて
 「地上絵見物の小型飛行機の申し込みをしろ」と言う。
 「いらない」と言うと
 「それでは博物館見学のツァーを組んでやる」と言う。
 「それもいらない」と言うと
 「ナスカに何をしに来たのだ」と聞くので、
 「実はプキオに知り人がいて明日はその人を訪ねて朝早くナスカを出発しないといけ ないのだよ」と言うと
 「な〜んだ。それで分かった。旅の無事を祈るよ」とあっさり引き上げた。

 凡そナスカを訪れる日本人で地上絵見物も博物館巡りもしない人間なんていないのだろう。彼らのビジネス・チャンスがものにならず多少気の毒な気もするが、私達は8年前に地上絵もパレドネス遺跡や水路、双注口壺の製作場もタップリ見物している。余程の愛好者か研究者を除いてそう何度も見るほどのものではない、と私は思っている。

1月29日  朝6時に目が覚める。目の前に病院があってもう十人くらいが並んで待っているいる。この風景は何処の国も同じだ。その前に絞りたてのジュースを売る屋台が出ていて、患者と思しき人や道行く人が買って飲んでいる。穴のあいた金属の壺に皮を剥いた果物のぶつ切りを放り込んでテコで絞る、混じりっ気なし本当の生絞り。このジュース絞り器、年配の方はかって町のあちこちで見かけた井戸ポンプ、水汲みポンプを思い出してして頂いたら想像がつくのではないだろうか。  朝食にもジュースが出るのは分かっていたがやはり目の前で絞ったものが飲みたい。買いに出ると、ナランハ(オレンジ)、ピーニャ(パイナップル)、マンゴー、色々あってどれもコップ1杯2ソーレス。私はピーニャ、妻はナランハを頼む。ムッちゃ旨い。

 朝食はコンチネンタル・スタイル。何だか茶目っ気タップリのオジチャンが注文を取りに来る。コーヒーはアルミパックに入った粉末コーヒーとお湯。フレッシュは普通の牛乳で別料金だった。
 一体にペルーのコーヒーは濃縮されたコーヒー液にお湯を注ぐものが多い。それに比べて粉末コーヒー=インスタントコーヒーは一段上等とされている。この後泊まった全てのホテルでは濃縮液のコーヒーだったし、ペルーではドリップ式のコーヒーにはついにお目に掛からなかった。勿論それが嫌だとか悪いと言っているのではない。むしろ中々おもしろい習慣だと思っている。念の為。  このオジチャンがタクシーを呼んで、「プキオ行きのバス停まで連れていってやれ」と頼んでくれた。

 ところが、プキオ行きのバス停として連れてこられたのはタクシーの溜まり場の様なところ。「本当にここがバス停なのか」と言うと「間違いない」とのこと。どうやらここでは乗り合いタクシーをバスと称するようだ。料金は15ソーレスで妥当なものだ。ならば良いかと待っていると助手席に相客と思しきカップルがいて、狭いのに男性の膝に女性が座って何やらお喋りをしている。ペルー人の愛情表現は濃厚なものだと見ていたがどうも様子がおかしい。二人とも見かけ4,50代、どう見ても夫婦ものなのだが、いくらペルー人でもこの年配の夫婦が人前でこんなにイチャイチャするものだろうか。少し不思議な気持ちで見ていた。

 タクシーの運チャンがやってきて私達の乗り込んだ後部座席には4人座らせると言う。どう見ても3人掛けでここに4人は相当窮屈だ。それならオルメーニョの方が楽だったなと思ったが仕方がない。更に待っていると再び運チャンが来て「どうも客が来ない。あんた達倍の料金を出したら今すぐ出発できるし、ゆったりと乗って行けるぜ」と言う。プキオにはビキさんのお姉さんのマリアさんが待ってくれているはず、早く行かないと迷惑を掛ける。涙を飲んで倍料金を払うことにした。

 そこで出発なのだが助手席の二人は二人で重なり合って座ったまま出発しようとする。それで謎が解けた。ナスカの乗り合いタクシーでは助手席は定員2名だったのだ。私達は四人席を二人で買ったことになる。しかし、いくら権利があるからといって助手席に二人を座らせて私達だけ悠々としているのは余りにも気が引ける。
 「ちょっと車を止めてよ。良かったら一人こちらに座らないか」と言うと
オジチャンが嬉しそうに「グラシャス」と言ってすぐに来る。
それはそうだろう、あの姿勢で4時間タクシーに揺られるのはどう考えてもきつい。

 このご夫婦はなんとアヤクチョ市の人で用事でプキオへ行くのだと言う。昨日はイカを経由して一日掛かりでナスカに来たとのこと。アヤクチョはプキオの真北、約200キロメートル。アヤクチョからプキオには一応自動車の通れる道もあるのに…。イカを経由したのでは倍以上の道のりになる。
 「どうして真っ直ぐプキオに向かわなかったの」と聞くと
 「あの道はとても悪い。交通の便も良くないし」とのこと。
実は日本を出発する前には、イカからアヤクチョ市に入ってプキオに南下する計画も立てていた。しかしアヤクチョからプキオへの交通について全く情報が入らなかったので大事を取ってナスカ経由に変更したのだ。アヤクチョはぜひ行ってみたいところだったのだが…。でもナスカ廻りにして良かった。現地の人でさえ敬遠する道だったのだから。アヤクチョへは別に考えもある。

 車はナスカを出るとすぐに急勾配の七曲り八曲りの道にかかり、ぐんぐんと高度を稼いでいく。まさに天空へ駆け上がると云う感じだ。運転手がカセットテープを掛けてくれる。プキオの曲だ。真っ青な空、眼下に名も知れないプエブロを眺めアンデスを登りながらプキオの曲を聞く、実に楽しい。嬉しくなってくる。
 「私達はこういった音楽が特に好きなんだよ。それからアヤクチョの音楽も」と言うと例のオジさんが
 「アヤクチョの音楽だって、僕もギターを弾くんだよ。上手くはないけど」と言う。
 「へぇー、機会があったらぜひ聞かせてください」などとなごやかムードだ。
するとオジさんが突然
 「フジモリ元大統領のことはどう思うか」と質問してくる。
ウァーッ、一番恐れていた質問だ。フジモリについてペルー人にコメントできるほど彼とその事蹟について良くは知らない。新聞雑誌、テレビのニュース以外では彼の御母堂の手記を読んだぐらいだ。といってまったくコメントしないのも誤解を招く恐れがある。仕方なく
 「彼は確かに強引すぎたようだね。でも同じ日本人としては、彼は私利私欲からそう いったことをしたのではなくペルーの為を思ってやったのだと信じたいよ」と言った。オジさんは納得したのかそれとも話にならんと思ったのか、おそらく後者だろうが、その後そのことについては話題にしなかった。運転手もアヤクチョ音楽に飽きたのかそれとも元々好きなのかボレロのCDに変えてしまった。

 やがて車は坂道をのぼりきって平坦な道に入る。道の両側には草原が広がっている。アルティプラーノだ。しばらく行くと野性のビクーニャの群れを見かけるようになった。草原のあちらこちらに十数頭づつが群れている。カメラを取り出して車の中から写真を取ろうとするが車のスピードが早すぎてなかなかアングルが決まらない。それと察した運転手君が車を止めてくれたのだが今度はビクーニャ君が全員食事に夢中で全く顔を上げてくれない。撮影会は不首尾に終わった。

 次はルカナスと云う集落で小休止。ここはアヤクチョ県ルカナス郡なので郡都かと思ったが郡都はこれから行くプキオ。まったく町とすら呼べないこんな小集落がなんで郡名になっているんだ?。あえて聞き糺すこともしなかったが、きっと由緒のある村なんだろう。
 休憩していると、広がったスカートにカーディガン、山高帽に肩にはアワヨにくるんだ荷物という伝統的なスタイルのオバァちゃんが「この車はプキオに行くのか」と聞きに来る。運転手君が「そうだ」と答えるといきなり5,6人、若いのやら年寄りやら男女も取り混ぜた人達が現れて車に乗り込んでくる。この車はタクシーと云ってもバンなので後部の荷台にも乗ろうと思えば人が乗れる。かなりの人数が押し合い耗し合い乗り込んだ。あぶれた一人、かなり大柄なおジイちゃんが助手席に割り込んで来た。私達の席には運転手が「この席は日本人が借り切っているのでダメ」と云ってくれたのでさすがに入って来なかったが、助手席は微妙な感じ。アヤクチョのオジチャンが抗議をしたが「空いているのだから乗せてくれてもいいじゃないか」と言って強引にオバちゃんの膝に座ろうとする。この人たちにとってはこのタクシーが貴重な足なのだ。プキオに急ぐ用事もあるのだろう。逃してたまるかという気迫が感じられる。運転手も黙ってみている。私達も口を出さないことにした。するとさすがに女房の膝に他の男を座らすのが嫌だったのだろう。オジちゃんはオバちゃんを私達の隣に座らせ、自分が助手席に移ってジイちゃんの膝に座った。しかしここからプキオまではもう3,40分、もう少しの辛抱だ。

(左)
 草を食むビクーニャ。


(右)
 ルカナスのテレフォニカ。

 昼過ぎ、プキオに着いた。プキオとは泉とか湧水の意味。一見埃っぽい田舎町だが、この町のどこかにきっときれいな湧水が沸いているところがあるのだろう。
 メインストリートの入り口に大型のバスが3,4台止まっていて、そのまわりに人々がわさわさ群れ集まっていてとても賑やかだ。我々のタクシーはその後ろに着けた。運ちゃんが「この道を真っ直ぐ行くとアルマス広場だよ」と教えてくれる。アヤクチョのご夫婦ともここでお別れ、「アスタラビスタ、縁があったらまた逢いましょう」など言い合って別れる。私達は取り敢えずアルマス広場まで歩くことにした。

 大体ペルーの町は、中心にアルマス広場とそれに付属する教会があってその前の道を真っ直ぐ行ったところにもう一つ広場がある。この二つの広場を直線に結ぶ道がその町のメインストリート。このメインストリートを軸に碁盤の目のように道路が通っていて、その辺りが町の中心街。色々な商店なども集中している。そしてその回りに住宅地が広がるという構造になっている。プキオもそうだがリマ、イカ、ナスカ、コラコラ、クスコ、シクアニ、プーノ、フリアカ、訪れた町はすべてこういう構造だった。勿論教会もない小さな集落は別だし、リマのような大都会は繁華な場所が分散していてアルマス広場が必ずしも町の中心ということではない。

 プキオの町のメインストリートにはその両脇にそれぞれサブストリートとも云うような大通りが通っている。さすが郡都だ。メインストリートには電気屋、雑貨屋、靴屋、服屋、帽子屋など日用品を扱う店が並ぶ。北側のサブストリートには食料品店、レストランなど食べ物関係の店が多く、南側には電話局、デイセンター、文房具屋、コピー屋などが多い。どの道も買い物客や何やら用有り気な人たちで賑わっている。こう書くといかにも都会の様に思えるが、町の端から端まで歩いて15分掛からない小さな町だ。
 電気屋や雑貨屋の前には大きなスピーカーが置いてあって大音量で音楽を流している。どれもこの地方の音楽だ。普通のフォルクローレのCDもあるにはあるが隅の方や下のほうに置いてあって、陳列棚の正面にはこの町の祭りの音楽が並んでいる。VCDに映っている大通りはまさにこの大通りだ。何だか嬉しくなってくる。

 しかし見たところ私達のような観光客は一人もいない。ホテルは何軒もあるので旅行者がいないことは無いのだろうが皆忙しげで用有り気である。旅行者といっても商用の人がほとんどなのだろう。大体が観光に値するものが何もないのではないかと思う。
 アルマス広場でベンチに腰掛けて休んでいるとオジちゃんが二人相前後して声を掛けてきてくれた。
 「何処から来たの。リマからか?」
 「ノー、ハポン」
 「ヒエー、またなんで?」
 「この町の音楽が好きだから一度どんな処か見たかったの」
 「良い町だろう。とっくり見ていってくれ」
 「シー、グラシァス」
なんてね。
 さて午後の1時を過ぎた。ビキさんのお姉さん、マリアさんの家へ向かおう。

 マリアさんにはビキさんが電話を入れてくれているはず。モトタクシーで5分ぐらいの距離。訪いを入れるとビキさんの妹のカルメンさんとお父さんが出迎えてくれた。
 この家にはカルメンさんご夫妻と三人の子供たちそしてお父様とマリアさんの6人で暮らしておられる。長女タニアさんは18歳のかわいいお嬢さん、日本語の単語を幾つか知っている。「すっごーい」「分からへん」などだ。我々に歓迎の辞を述べてくれる。勿論、スペイン語で。
 少し休憩していると「家族がそろったのでお昼御飯を食べましょう」と言ってくれる。スープとロモサルタード、とても美味しい。食後お祭りのVCDを皆で見る。カルメンさんのご夫君ダニエルさんが「ほら、ここに僕がいるよ」と教えてくれる。市販のVCDに目の前の当人が写っているなんて本当に素晴らしい。

ビキさんのお姉さんマリアさんのご一家。


 マリアさんが「休憩する?それとも散歩に行く?」と聞いてくれるので「散歩に行きたい」と言うとモトタクシーで一家の持ち山に案内してくれた。クスコへ向かう道をほんの五分程行ったところ。少し斜面を登るとあちこちに段々畑がしつらえてあって、トウモロコシ、じゃが芋、キュウリなどが栽培してある。小規模だがこれもアンデスだ。色々なハーブが自生していてマリアさんがその名前と効能を教えてくれるのだが、十種類程もあってとても覚え切れない。いちいち噛んで見せてくれるので私達も味わってみた。どれもとても香り高い。ミントの様な香りのするものが多いがニッキに似た味、シナモン、ナツメグに似た味、色々だ。マリアさんがビニール袋にいっぱい入れて持たせてくれた。
 更に山を登ると大きな岩があちこちに露頭している場所に出た。
 「岩の根元をよく見てご覧」
とマリアさんが言うので岩の下の窪んだところを見てみるとなんと人骨がごろごろしている。そういう場所が何ヶ所もある。  「これは昔のお墓なの、ちゃんと遺跡指定も受けているのよ」
 「へぇー、いつ頃のものなんですかぁー」
 「インカよりももっともっと古い時代。千年以上前だと学者が言っていたわ。昔はよ く調査団が来ていたのよ。この頃はさっぱり来ないけど」
どうもケーナ製作用に大腿骨一本貰っていくと言うわけにはいかないようだ。

 ひときわ大きな岩の上に登る。とても見晴らしが良い。陽に照らされたプキオの町が一望できた。

(左)
 マリアさんのお家の持ち山からはプキオの町が一望できる。


(右)
 我々を運んできたモトタクシー。帰りを待ってくれていた。

 そろそろ日が暮れる。マリアさんにホテルまで案内してもらった。「家に泊まっていってもいいのよ」と言ってくださったのだが、ビキさんに散々お世話になったうえにそれでは少し厚かましい。案内してくださったホテルはアルマス広場のすぐ近く、南側のサブストリートに面した落ち着いた雰囲気の建物。「明日のコラコラ行きのチケットを予約しておきましょう」とバス乗場にも案内していだいた上、一切の手続きをしてくださった。
 夜、二人だけで夕食を摂りに出る。夜になってもメインストリートやサブストリートは中々賑やかだ。特に北の通りはレストランと屋台店で賑わっている。屋台店はお決まりのアンティクーチョ、鳥肉の揚げたもの、揚げパン等々を売っていてどれも美味しそうだ。薄茶色の液体を売っているのはどうやらチチャ酒のようだ。昼間目を付けておいたCD屋に入っていろいろ物色、面白そうなCDが買えた。
 一軒のレストランに入る。ポヨ・ア・ラ・ブラサが名物らしく客の多くがそれを食べている。私達も同じものを頼んだ。量が多くてとても食べ切れない。見ているとポリ袋を貰って持って帰る人も多い。私達もホテルに持って帰って夜食にすることにした。そこでウエイトレスにポリ袋を頼んだのだが、妻が正確なスペイン語を話そうとしてかえって伝わらない。すると隣にいたオバチャンが「この人たちポリ袋を欲しがっているのよ」と助け船を出してくれた。

1月30日
 朝10時、コラコラ行きのバスに乗る。日本なら8人乗りくらいのワンボックスカー、それを20人乗りにしてある。マリアさんがわざわざ見送りに来てくれる。色々細々とした注意を与えてくれた上、「コラコラではこのホテルなら安心だからここにに泊まりなさい」とメモをくれる。ゆうべの内に調べてくれたらしい。おまけに私達の隣の席の若者に「あなたコラコラの人?それじゃこの日本人達をちゃんとホテルまで連れていって。頼んだわよ」と言ってくれる。さすがに学校の先生、すごい貫禄だ。最後まで手を振り合って別れを惜しんだ。

 プキオからコラコラまでは4時間、道路は舗装がされていないがしっかり突き固めてあるのでそれほど大きくバウンドすることはない。だけど小さなバウンドはしょっちゅうだし始終ガタガタと揺れる。それで思い出したが小学校の遠足の時、私達はよく車酔いをした。しかしその頃の日本の道路は大半がここと同じ未舗装道路だった。郊外に出るとすぐ砂利の敷いたガタガタ道を揺られていったものだ。今から思えばあんな道、酔って当然のようなものだ。たった五十年前の話だ。

 コラコラはプキオがアヤクチョ県ルカナス郡の郡都であるのと同じく同県パリナコチャス郡の郡都だ。しかしプキオよりは二回りほども小さい。町の端から端まで歩いて10分程で行けてしまう。高度はプキオよりやや低い3200メートル、抜けるような空の青さは共通している。メインストリートは一本だけ。ここでも大きなスピーカがこの町の音楽を流している。私達の大好きなフォルクローレだ、感激する。

コラコラのメインストリート。


 バスを降りると例の若者が「すぐにホテルに行くか?」と聞くので「喉が渇いている。ジュースが飲みたい」と答えてバス停のすぐ前にあるジュースの屋台店に入った。若者は「いらない」と言うので私達の分2杯頼むとピッチャーで2杯出てきた。3人で3杯づつ飲んだがまだ余った。次の日もここでジュースを飲んだ。今度は間違われないよう「ドス・バソ」と頼んだらまたピッチャーで2杯出てきた。どうやらこの辺では普通のコップで2杯と言うのは「ドス・タサ」あるいは「ドス・コパ」と言うらしい。こんな語学力でよく一月弱もペルー旅行ができたものだ。

 若者はマリアさんのメモを見ながら一生懸命ホテルを探してくれるのだがどうものつこつしている。よく分からないらしい。お礼を言ってモトタクシーで向かうことにする。モトタクもあちこちで尋ねながらようやっと行き着いた。
 ホテルの名前は“カソナ”、ケチュア語で宮殿という意味だ。名前とはまるで違って何となく仕舞た屋風な佇まい、しかしドアを開けると南欧風の花壇をしつらえた奇麗な庭が広がっている。部屋はそこそこ。ペルーのシャワーはソーラーシステムが多いのだがここは電気の蓄熱式、夜中になってやっと熱いお湯が出た。

(左)
 コラコラの街路。左の赤い建物がカソナ。


(右)
 カソナの玄関を入ったところ。

 夕飯がてら買い物に出たが、ここでも観光客は私達だけ。町を行く人達からジロジロ見物された。一軒のレストランに入る。メニューがないと言うので壁に貼った写真を見てピラフのようなものを注文すると10歳位の女の子が「これはあなた達のお国の食べ物よ」と言って持ってくる。なんと炒飯だ。とても美味い。ここではチャウファと言うらしい。

 ここはプキオとは違い夜になるとほとんどの商店が店を仕舞う。夜店が出ることもない。余りに退屈だ。

1月31日
 朝になってもすることが無い。ホテルの屋上に昇って景色を見ていると何処からともなく風に乗ってバンダの演奏が聞こえて来た。すわっ祭りが始まった、見逃してたまるかと大急ぎで音のする方向へ走っていった。何ブロックかを走るとかなりの人数の行列が見えた。前のほうには何か御神輿のような物を担いでいる。やっぱりお祭りだったのだとついていったが、何か様子がおかしい。少し地味だ。御神輿をよく見ようと人を掻き分け前の方に行くと御神輿ではなく棺だった。お葬式だったのだ。町の辻々で止まっては司会者が故人の業績、人となりを紹介し、神父が聖水を振り撒く。私達も皆と同じく帽子を取り俯いて神妙に聞いた。
 会葬者に紛れて教会の中までついて行く。バンダの演奏は田舎風のしめやかなフォルクローレだったが教会の儀式の合間に流される音楽は全く普通のフォルクローレ。不謹慎かも知れないがこれはこれで面白かった。

(左)
 コラコラで出会った葬列。一見するとお祭りのようだ。


(右)
 お葬式の演奏をしていたバンダたち。教会の前で休憩している。

 午後3時、リマまで16時間、直行便のバス、エクスプレソ・サンチェスに乗り込んでコラコラに別れを告げた。途中、乗り合わせた子供達が「ラーゴ、ラーゴ」と騒ぐので振り替えると遠くにエメラルド色に輝く湖が見えた。パリナコチャス湖か?そんなはずはない。だが美しい湖だった。
 夕暮れ、車掌が「バーニョ」と声を掛けてバスが止まる。何もない、大きな岩がゴロゴロしているだけの野っ原だ。しかし皆ぞろぞろ降りて女性は岩陰で男性は堂々と用を足している。おバァちゃんなどは岩に隠れるでもなくスカートの中ですましてしまう。なるほど聞いた通りだった。

 プキオには夜に着いた。パンやサンドウィッチ、お菓子などの弁当を売る女の子達が乗り込んで直ぐに発車。ところが一仕切り売り終えてもバスは止まらない。
 「帰れなくなっちゃうじゃないの」と女の子達が騒ぎ出してようやくバスは止まった。真っ暗な道をプキオの灯かり目指して女の子達が帰っていく。バイバイ。何だか旅が終わったような気分がした。

2月 1日
 朝7時30分、定刻通りリマ着。約束通りワシさんが迎えに来てくれていた。
 ビキさん宅に戻るとリチャード・コタカチというエクアドル人が来ていた。彼もビキさんの弟の友達で、シサイのメンバーだという。シサイはついこの間もライブを見たがこんな人はいなかった。帰国してからシサイのマネージャーさんに確かめたら確かに5年ほど前の一時期、一緒にやっていたとのこと。旧メンバーだったのか。
 彼はこれからバスでキトまで帰るという。1200キロの大移動だ。みんなで一緒に昼飯を食べた後バス停まで荷物を持って送っていった。

エクアドル行きのバス停にリチャード・コタカチを送る。


 その後はビキさんとヒメナに案内されてセントロに本を買いに出た。それなりの買いものをしたが本当にこれを使って勉強するだろうか、私達は?

 ヒメナがアルマス広場の噴水で水浴びをしてビキさんに叱られている。本当に天真爛漫な娘だ。私達もまねをして少しだけ頭を濡らした。

 さて、ビキさん一家には本当にお世話になったが明日はもうクスコだ。早めに寝ることにしよう。



← 前ページにもどる   ↑ ページトップへ   次のページへ →






「ミゲルとポニタのペルーふたり旅2007」表紙に戻る

「ミゲルとポニタのフォルクローレ生活」ホームページに戻る